意外と強固な感じで持っていた、いろんなイデオロギーを捨てていくのが最近のマイブームです。
仏教的なこととか、道徳的なこととか、倫理的なこととか、ヨガ的なこととか、整体的なこととか、健康に関することとか。
いらないものを思い切って捨てたら部屋が異様にスッキリするのとおんなじで、いろんなイデオロギーをばかすか捨てちゃったらこころも異様にスッキリするんですね。
ワシ、なんでこんなもん、後生大事に持っとったんだろう。
意外なもので、イデオロギーって捨てようと思ったら案外カンタンに捨てられるんですね。
もしかしたら毎日掃除をする習慣をつけたからかもしれないです。
かれこれ180日ほど毎日掃除をしているんですけど、こうなってくると「捨てる」っていうことにあんまり抵抗がなくなってしまうのかもしれません。
とくにヨガを捨ててやったときには、えもいえぬ爽快感を覚えた。
自由になるために学んだつもりのヨガが、かえって自分を拘束していたのでした。
断捨離なんていうのが流行ったりしてますけど、これも注意したほうがいいですね。
「捨てることにこだわる」「持たないことにこだわる」ようになってしまったら、本末転倒もいいところです。アホがすることである。
次は、プライドだな。
自分ではプライドなんてそんなにないと思ったりしていたけど、そんなことないね。
なんかヘンなところで捨てきれないプライドのようなものがある。
たいしてエラくもないくせに、妙に鼻っ柱がつよい。
案外負けることがきらいで、負けたら悔しがるんだ。
うざいなあ。
うっとうしいなあ、そんなやつ。
あー、キモチワル。
若い時は、いいんですけどね。
若い時はだれだってプライドが高いですし、ある意味そうでないといけないところもあるとは思います。
いちばんきもちわるいのは、ええトシのくせして、プライドを持ち続けているヤツです。
若いもんには負けていられない! みたいなのとかね。
いや、ええやんけ。
むしろ、負けてやれや。
オッサン・オバハンは、若いひとに負けてあげて、ナンボであります。
「いやあ、若いひとって、すごいね! いいね!」
って、目をキラキラさせて、いっぱい褒めてあげるの。
そうしたら若いやつって素直でアホだから、喜んで尻尾振って、頼んでもないことをいっぱいしてくれるからさ。
これを利用しない手が、どこにあるんだよ。
いっぽうで若いひとってプライドが高くて尖ってるから、オッサンやオバハンがエラソーなことを言ってくると、すげームカつくの。
それに対抗してオッサン・オバハンが若い人に負けて「チッ・・・」とか思ったりしていたら、若い人たちからするとそういうのってすげーハラタツ。かわいくない。
すなおにバンザーイ、負けたよー、あんたすげえよ、って言ってあげるのが、オッサンオバハンのしごとです。
褒め殺しで使い倒すのはズルいような気もする。
でも実際には、そうじゃない。
若い人にできないことを、オッサン・オバハンがしてあげるのですね。
知識? 知恵?
ちがうね! そういうのだって、若いひとのほうが優れていることのほうが多い。
オッサン・オバハンにしか、できないこと。
それは「媚びへつらう」ことですね。
お客さんとかに、にゃぁあ〜ん、にゃぁあ〜ご、まるでネコみたいにゴロンゴロン懐きまわったらええねえん。
若い人ってそういうの、できないんですよね。
プライドが高いから。
そーゆーふーに人にへりくだって、媚びへつらって、ニャーゴニャーゴ喉を慣らす人のことをとても軽蔑するものです。
何者をも寄せ付けず、堂々と我が道をゆく孤高の存在であり続けるひとのことを、若い人はむしろカッコイイと思うものです。
ええやん。
軽蔑されたらええねん。
軽蔑されてあげたらええねん。
一銭にもならず、よけいな闘争と気遣いばかりを生む、ただの美学である「誇り」なんて捨てちまって、いやらしいまでにへりくだって、ニャーニャー鳴いとったらええねん。
人ができないことを、できるひとが、してあげる。
これが「社会」なんですよね。
お客さんがテーブルの上にキンタマを載せろというのなら、載せたったらええねん。
「そんなことできるか!」
とか、言わんでも、思わんでもええ。
土下座でもなんでも、やったったらええねん。
誇りなんてものも、一種のイデオロギーなんですよね。
いらねえよ。そんなもの。
だいじなのは「結果」だからね、その結果を、最もアルゴリズム的に良い方法で導けば良い。
プライドなんかでいちいちプログラムの遂行を阻害してんじゃねえよな。
なんのために、トシ食ってきたんじゃ。
トシとるほどにプライドが高くなるようなら、それは残念なトシのとりかただ。
結局、なんにも捨てられなかったんだね。
それってさ、ただの臆病者じゃん。