思い出したっ!
そーだった、どーして忘れていたんだろうか、ぜひとも行きたいところがあったのでした。
それも国内に。
「熊野古道」です。
最近登山を復活しようと思っていたのですが、じつは目標がなかった。
むろん近場の六甲山系や裏山でも良いのですが、正直もう飽きちゃったというのもあります。
ガキのころから遊び場にしていたので、べつにもういいかな、というのがあります。
そして、いずれはキャンプもしてみたい。
六甲山系でキャンプっていうのは、どうなんだろう、たぶんあまりしないと思う。
やろうと思えば修法ケ原あたりでできるのかもしれないけど、あんまり聞いたことがないなあ。
基本的には日帰りで上り下りする山だと思います。
その点熊野古道はキャンプルートというのがちゃんとあるらしい。
そもそもなぜ登山が好きなのかというと、自然が好きとかいうのももちろん無きにしもあらずだけれども、じつは「修験道」にとても強いシンパシーを感じるのであります。
神仏分離令が発布される以前、日本はカミとホトケの境界が曖昧でした。
神様であろうが仏様であろうが関係あるもんか、聖なる存在なら別け隔てなく大切にしよう。
そういうのが日本的な「和」でいいなあ、と思うのです。
修験道はまさにその典型で、神様と仏様だけでなく顕教と密教まで混交している。
「いまあるものを、そのままに、全体として肯定する」というところが、なんというか禅的でいいなあと思うのですよね。
そしてとにかく神様や仏様におすがりすれば良いのだというような依存型ではなく、自分自身を鍛え上げることも重要な目標としているのも好みに合います。
「在家型」というのも、いいですね。
真俗一致、出家して聖なる領域に逃げ込むのではなく巷間に一般人として生きることもまた修行ととらえ、普段の生活において皆と苦楽をともにして超越を目指すというのが、男らしくて好きです。
……とはいえ、山伏のあんな過酷な修行をしたいわけではありませんし、もうオッサンになってしまったから正直ついていけないと思う。
だからせめて「お近づきになりたい」っていう程度です。
熊野古道は高野山や金峰山につながっているのだそうです。
ぼくはこの山が両方ともとても好きです。
神戸方面とはまた違った形状が魅力なんですよね。
なんていうか……スケールが全然ちがうの。
まさに聖域、という感じがする山です。
やっぱり目標が定まると、シャキっとしますね。
目標もなくただただそのへんを歩き回ったり筋トレしたりして鍛えるというのは、むしろ苦行です。
熊野古道を踏破できるほどの体力がつけば、ぼくはもう、そんなもんでいいです。
べつにヒマラヤのてっぺんに行きたいとか、そこまでは全然思わないです。
熊野古道が達成できたら、つぎは「屋久島」ですね。
ここも死ぬまでに一度は行ってみたい場所です。
パニック発作から外出恐怖になって、もしかしたらこのまま一生旅行なんてできないかも、と思った時期もありました。
ずいぶんマシになってはきましたが、恐怖感はまだ完全には消えていません。
でもいずれは、きっと行けると信じています。
一念岩をも通す、ともいいますからね。
ぼくはどのみち、「まちなかのいろいろ」には、もうそんなに興味がありません。
それこそ若い頃さんざん遊びまくったので、いまさらどんなにオシャレで珍しい、おいしいお店ができたとしても、それほどはコーフンしませんし、そんなに行きたいとも思えない。
いま、そして昔から、ぼくがぜひとも行きたいのは熊野古道と屋久島です。
それを目指すためならがんばって治してやろうという気持ちにもなれます。
同窓会に行くためとか、オシャレな美味しいお店に行くためとかでは、もう頑張れる気がしない。
だってもう、お酒やめちったから。
飲みに行かないとなると、町そのものが急に色あせてしまったのです。