申し訳ないが、今日は笑ってしまった。
そして、非常に強く納得した。
「馬鹿は黙れ」
身内の恥であるが、いま我が家は遺産相続で揉めている。
遺産相続と言っても億単位のことではなく、亡くなったぼくの叔母、つまり母の妹さんが所有していたマンションの分割についてである。
いちおう不動産関係に少しだけ縁のあったぼくの試算では、そのマンションの築年数や立地条件などからして、おそらく1200万円〜1800万円までの物件である。
実際に業者さんに見積を依頼したところ、やはり1500万〜2000万円という値がついて、では1800万円で売り出そうという話になった。
しかし昨今はコロナ禍であり、景気もいまひとつな感じもあるので、ぼくのカンではそんなに高い値段では売れないと思う。
そもそも買う人がいないかもしれなくて、おそらく最終的な落とし所は、不動産会社が最低金額の1500万円で購入し、リフォームをして2200万円ぐらいで売り出すことになるのだと思う。
何を揉めているかというと、そもそもは叔母さんが亡くなる前に、母に「お姉ちゃんが私のマンションを引き継いでね」とお願いしたことに端を発する。
具合のわるいことで、このときに叔母さんは遺言書を残さなかった。
遺言書がないのであれば法的には無効なので、相続者全員から「同意書」をもらうことにした。
なんと8人もの相続人がいて、全員の同意をとりつけるのに時間がかかったが、そもそも母はウソをつくような人間ではなくクソ真面目なタイプなので、親族のほとんどは同意をし、すんなりとこの話は終わる予定だった。
何より母は叔母の死に目に立ち会っただけでなく、入院中にもいろいろ世話をしており、それ以外でも長らく叔母を助けていたという事実があるので、叔母の遺言について懐疑を挟む者はほとんどいなかったのである。
しかし1人だけ、強硬に反対する女が現れた。
この女は親族の中でも問題児とされている女性で、とにかく金にうるさいことで有名だった。
母がマンションを受け継ぐと聞いた途端に怒髪天を衝き、いかなる理由をもってしても許さん、と吠え始めたのである。
そして、これがまことにおぞましいことであるが、そもそも叔母を地元から追い出したのがこの人であった。
追い出されたがゆえに、叔母は母が住む神戸に逃げるようにやってきたのである。
そして彼女の就職の世話まで、父が面倒を見てやった。
叔母は結局結婚はしなかったが、真面目に仕事を勤め上げ、そのお金でマンションを購入した。
叔母の「想い」のようなものも大切にしたいという気持ちが、母にはあった。
ちなみに、その反対者の女の母親は、ぼくのおばあちゃん、つまりは母の母も同様に地元から追い出していた。
おばあちゃんが亡くなったときも、この女は一切弔意を述べることはなかった。ガン無視である。
その女はじぶんが追い出した人間、すなわち叔母が死んだら、そのケツの毛までむしろうとしているわけである。
入院の知らせを聞いても見舞いにも来ず、それどころか、亡くなっても弔電のひとつも寄越さない。
しかし「相続権」だけは、声を大にして主張するのであった。
具合のわるいことに遺言書がないので、法的にはその女の言い分は不当とはいえない。
とうとうその女は弁護士まで雇って徹底的に同意をひっくり返す行動に出たのであった。
このせいで、本来なら数ヶ月で住んでいた話が今や2年めに突入している。
冷静に考えれば、相続人が8人もいれば、1500万で売れた場合、単純計算で一人あたりの利益は180万円程度である。
そこから諸費用を差っ引けば、もっと金額は減るであろう。
弁護士に支払う費用は法的に決まっているから、その額も原価に含まねばなるまい。
2年以上の歳月をかけて取得した利益と考えれば、これは少なすぎるとぼくは考える。
お金というのは数字の多寡だけでなく、その取得スピードによっても価値が変わる。
なぜならば、お金というのは物質ではなく、概念だからである。
必要以上に長い時間をかけて得た利益は、総合的には無価値になる可能性さえも孕んでいる。
まあ、それはこの際横においておく。
いずれにせよ、必死で頑張ってはいるが、総合的にはあまり儲かっていないという事実に気がついていないところに、恐怖を感じる。
ぼくが感じる恐怖、それは「馬鹿である」ということである。
いや、ぼくは馬鹿者が嫌いなわけではない。
むしろ愛している、といっても過言ではない。
中途半端に賢しい者よりは、むしろすがすがしく馬鹿である人のほうが、よほど信頼に値し、人間的にもレベルが高いことが往々にしてあるからである。
なによりも、話していて楽しいというのもある。
しかし馬鹿者のなかでも「エゴが強い馬鹿」「おのれを賢いと勘違いしている馬鹿」は、その例外である。
嫌いだとか、腹が立つとかをもはや音速で飛び越えて、ついには恐怖を感じるのである。
馬鹿すぎて怖い、というやつである。
今回の件でまず軽く恐怖を感じたのが「法律を持ち出した」という点である。
べつにそれはそれで構わないのだが、法律で相手を縛ろうとするということは、じぶんも法律で縛られるということである。
そうなると「情緒に依拠した交渉」が、一切できなくなってしまう。
世界が閉じていって、超法規的なソリューションを生み出せなくなってしまうのである。
具体的に言えば、相続者であるぼくの母親は、はっきりいってお人好しである。
だからうまいこと取り入って、情に訴えるようなことをすれば、法的な按分よりも、より多くの利益が得られる可能性があるのである。
じつはその女の旦那、および同居する兄弟は若くして不審死を遂げており、母親は原因不明の病に臥せっており、その子は強度の知的障害を抱えている。
そのような、一般的には逆境といえる状態にある人間に対して、ぼくの母親というのは深い憐憫の情を持つタイプの人間であるから、そこを突けばかなり有利な交渉もできたはずなのである。
しかしその女は、その可能性を捨て、亡くなった叔母に対する追悼の意さえ示すことなく、我が身と相手を法律で縛り付ける道を選んだ。
そしてその態度は、完全に「喧嘩腰」である。
そういうことをするから、みんなつい思ってしまうのである。
旦那や兄弟が不審死を遂げたり、その子が重篤な発達障害を抱えたりするのは「バチ」なのではないか、と。
ぼくはバチなどというのはあまり信じないほうなので、その女が抱える人生上の不具合は別の原因があるか、もしくは偶然であろうと考える。
しかし、いままでの「非人道的な」行動を見ていると、他の親族がバチだ、呪いだとか言うのも、理解できない話ではないと思う。
ぼくの浅い経験においても、意識的に人を苦しめるような非人道的なことを行っていると、その因果が早々に自分自身に還ってくるというのを何度か見たことがある。
人に愛を与えれば、かならずしもその人からではなくても、いずれどこからか愛が返ってくるようになる。
人に勇気を与えれば勇気が返ってきて、笑顔を与えれば笑顔が返ってきて、安心を与えれば安心が返ってくる。
これはスピリチュアルな話ではなく、「人を愛する人」というのはその行動原理によって、愛を得る可能性が確率的に高くなるのだと思う。
いいことをしているひとは、いいひとが周囲にあつまりやすく、いいことに接する機会が増え、いいことの情報も得やすくなる。
スピリチュアルと言うよりも、行動による環境構築というほうが理にかなっていると思う。
だから逆に、人を呪ったり、恨んだり、嫉妬したり、怒らせたり、不安がらせたりすると、いずれ早々に、そのような事柄が返ってきてしまうのである。
これはきれいごとではなく確率論なのであって、道徳や倫理を超えた部分で機械的・数学的に起こりうる事象である。
だから、心根がやさしいかどうかなんてどっちでもよくて、たとえ腹黒くとも「人に愛を与える行為をする」というのは利口な方法だと考える。
ぎゃくにこれを行使しない者は、とんだ馬鹿者であると考えるのである。
おまえの考えていることなんか、どうだって良い。
おまえの性格なんか、どうだって良い。
おまえの都合なんか、どうだって良い。
おまえの「したこと」こそが、おまえの人生環境の方向性を決定づける。
このまさに「馬鹿みたいに単純な理屈」さえ理解できないその無能さにこそ、ぼくは恐怖をおぼえるのである。
人を追い出し、悲しませ、不安にさせてきたその女がまさにそうで、しかし、それだけならぼくはあまり動揺しない。
まあ個人的に人間としてどうなのよとは正直思うが、おれの嫁でも女でも友人でもないのだから、知らんわな。
しかし、裁判の経過で発したその言語にはホラー映画よりもおそろしい恐怖を感じたものである。
裁判が長引くので、裁判所が提示した譲歩案として
「この1800万円の物件を、1500万円で母が買い取るというのはどうか」
というのがあった。
これはそもそもこちら側が提示したことの1つでもあったので、不自然ではない。
しかしこの場合、今誰も住んでいないマンションの管理費や税金等について、叔母の死後は母が代理で支払い続けているのだが、それはどうなるのかという疑問が残る。
普通に考えれば、不動産の取得までにかかった維持費はあくまで仮払いであるので、そのぶんは全体の相続金額から母に全額返金されるべきだろうと考えられる。
しかし相手方は、これを拒否るのである。
その理由こそが、恐怖である。
「1800万円を1500万円にして、こちらは300万円も譲歩しているのだ」
ぼくは、冗談だろうと思った。いまは笑うところなのだろうと思って、ほんとうにウヘヘヘと笑ってしまった。
しかし、相手は大真面目も大真面目だったのである。
冗談ではないということに気がついて、ぼくは久々に「背筋が寒くなる」のを感じたのであった。
だって、1800万円というのは、あくまで「見積額」なのである。
「売れた金額」ではないのである。
実際に1800万円で売れたのであれば、その話はわからなくもない。
まあ、厳密に言えばもし1800万円で売れたとしても、譲歩したのはお前ではない、と言いたいところではある。
これは1対1の話ではなく、8対8の話なので、誰が譲歩したとかそういう話ではないからだ。
それに加えてただの見積額、すなわち言ってしまえば「妄想の額」を基準点として「300万」という数字を持ち出してきたのである。
そういう考え方ならば、もし1800万円で売れなくて、1500万円で売れたなら、「譲歩していない」ことになるのだろうか。
あるいは1200万円で売れたら、「300万円儲かった」という気なのだろうか。
自分が発した定義が条件によってはそのまま不利につながるという先見の知というものが皆無なのであって、これは恐るべき事態なのである。
わざわざ法律という手段に乗り出したこともそうで、相手を縛れば自分も縛られるという「反転解釈」ができないのかもしれない。
この相続事件については、母はすこし耳が遠いため、父が代理を行っている。
父は基本的におとなしく、そうそう激昂するようなタイプではないのだが、今回ばかりはとうとう大声で叫んだのであった。
「待てぃ! どこの世界でそんな計算が通用するんじゃあ!
あんたは、なにをいうーとるんじゃあ!」
親父の「ナイス・ツッコミ」であった。
親父は讃岐地方の出身なので、その方言からか、さながら千鳥のノブ氏のようなするどいツッコミを感じさせる。
つねづね思っていたのであるが、中国地方の方言のツッコミは、それだけで笑ってしまう「なにか」がある。
すこしのやさしさと、ゆるさとするどさとが混じっていて、えもいえぬ空気をつくりだす。
まあ、それはどうでも良いのであるが、父は元建築士だったし、不動産関係の法律にも多少詳しいし、全然ボケてもいない。常識人である。
「真面目な常識人が、素っ頓狂なひとに、真面目に突っ込む」状態に接し、ぼくはもう我慢ができなくなって、とうとうギャハハハハハと大声で笑い転げてしまったのであった。
しかし女のほうは「きょとん」としていた。
なにを言われたのかも、どうしてぼくが爆笑しているのかも、わからないようであった。
ボケとツッコミでいえば、今回のツッコミは優秀だったが、ボケのほうが「天然モノ」だった。
イキイキ、ピチピチであった。
だからある意味、笑ってはいけないのかもしれない。
しかし、ここで笑わずにすむ聖者など存在するであろうか。
今日のこの部分だけなら、我慢はできるし違う解釈もできる。
だがこの2年近くの一連の行動を含めて総体として認知したとき、これはもはや、ハイレベルなコメディではないのか。
いやほんとうに「愛のない馬鹿」は、この世界でいちばん滑稽だと思った。
本人は法律を盾に目を三角にして「戦っていまーす」的な雰囲気を醸し出しているのかもしれないが、口を開くたびに「あたしー、ばかなのらー」と宣言してしまっているのである。
笑いは「緊張と弛緩」であるといわれるが、これがまさに、そうである。
法律という緊張の極みにおいて、緊張したおももちで、素っ頓狂なことを言う。
ある意味かわいいのだが、人を傷つけようとする態度があるから、みんなから反感を買ってしまうのだが。
可愛そうなので手を差し伸べたいところではあるが、当の本人が拒否るのだから、どうしようもない。
ことのなりゆきを優しく見守って、爆笑させてもらうしかないのかもしれない。
黙っておけばいいのに。
ほんとうに、そう思う。
馬鹿なのは決して罪ではない。場合によっては美徳になることさえある。すくなくとも、ぼくは好きである。
しかしそのための条件は「愛がある」場合に限る。
愛のない馬鹿は、口を開いてはならない。
人に迷惑をかけるだけならまだしも、ご本人様こそが大損をするからである。
ぼくたちが、どちらかといえば善人に属する種族でよかった。
もしぼくが悪人だったら、このバカをだまくらかして、それこそケツの毛までむしりとるところである。
まあ、おばはんのケツの毛なんか、べつにいらないが。
遺産なんて、もともとじぶんの金ではないのである。
だからゼロになってもなんにも損してない。どうでもいいじゃないか。
死人のカネを1円でも多く獲得するために頭もカラダも使って奔走するのなら、生業にターボをかけて稼ぐほうがよほど効率的だと思うのだが。
死人のカネを欲しがっているじぶんを客観的に見て、プライドは傷つかないのだろうか。
死人のカネを得るためにかなぐりすてた人間性を、惜しいとは思わないのだろうか。
ひとのものを勝ち取るちからよりも、必要なものをじぶんで生み育てる「うぶすなのちから」のほうが、何千倍もたいせつだし、サスティナブルだとぼくは思うが。
前者には確実に制限があるが、後者には理論上制限がないのである。
お金そのものよりも、それを生み出す能力にこそ、真の意味での価値がある。
死ぬまでの有限な時間を、既存の価値をむさぼるために使うのか、「うぶすなのちから」を強大化させ、鍛え、磨き、価値を創造するために使うのか。
人の勝手だが、前者はあまりにも、みじめすぎやしないか。
親は、先祖は、神は、天地自然は、そんなみじめなことをさせるために、おれを生んだのか。