「うちの子が勉強しなくて」
どうしたらいいのかな、という相談をたまに受ける。
理由は、ぼくの娘は勉強がけっこうできて、塾も一切行っていないのに自力で返却不要の奨学金を獲得するほどだからである。
そして大学も、このままいけば主席で卒業しそうな勢いである。
どういうふうに指導したからそうなったんでしょうか、というわけだ。
そういった質問への答えはいつも決まっている。
「勉強しろと言わなかったからじゃないかな」
そういうと、ポカンとされる。
なにか秘密にしているんじゃないか、ウソついてるんじゃないか、とさえ思われることさえある。
ウソではない。ほんとうである。
子どもが勉強好きになるには、たった数回のコミュニケーションで事足りる。
なにも1ヶ月も半年も指導する必要なんかないし、塾もいらねえ。
自動的にかってに勉強するようになる。
小学校に入りたての子どもに、質問をするのである。
「いま、学校で何を習ってるん?」
そうすると、たとえば「つるかめ算」という答えがかえってきたとする。
「おわー! ナツカシー! あったなあ、そういうの・・・・ええと、それどうやるんだっけ?」
こっちが「生徒」になって、「うれしそうに」教えてもらう。
そうすると、理解していれば、やりかたを嬉々として教えてくれる。
教えてくれたら
「そうそう、こんなんだった・・・おまえ、すごいなあ! おれ小学校のとき、これ全然わからんかったのに〜」などといって大げさに褒めて、天狗にさせてしまう。
親に「勝った」ように思わせておくと、うれしくなって、キャッキャいいながら勝手に勉強していくようになる。
逆に、もし子どもが「わからない」ということなら、
「懐かしいから、おれにも教科書見せてくれ。思い出すから」
といって、こどもと一緒に問題を解いてみたりする。
「これを、こうして・・・こうすると、あ、そうか! こうするから、こうなるんか!」
といって、一緒にやってみる。
そうすると、「わからない」とは言っているものの、子どもというのは記憶力がすごいので、そのうち思い出したりする。
勉強嫌いな子どもでも、クイズは好きだったりするから、「わからなかったことがわかるようになる」快感をおぼえさせたら、あとはかってに勉強しよる。
そこで最後に、ダメ押しである。
「勉強って、おもしろいよなあ!」
と、大げさに感動する演技をする。
子どもなんてものは、単純で他愛のないいきもので、間近でそのように親に同意を迫られたら「そう思おうとする」のであった。
そして、勉強ということを取り巻く雰囲気が「楽しい」と思わせる。
すると、アホだから、いつのまにかほんとうに「勉強は面白い」とか思いはじめるのである。かわいい。
まず大前提として「子どもが勉強してくれない」という親じたいが、そもそも勉強嫌いだったりするのである。
ぼくは理の当然だと思うのだけれども、親が勉強嫌いなら、子どもが勉強好きになるのは、ずいぶんオカシイのではないか。
気持ち悪いのではないか。
妻か夫の浮気を疑ったほうが良いのではないか。
おのが子どもに勉強好きになってほしければ、おのれが勉強好きにならなければ、それはちょっとうまいこといかんのではないか。
なのに親は自分が勉強好きになろうとはしないで、その責任をすべて子どもに押し付けようとするのであった。
んなもん、可愛そうやわなあ。拷問やわなあ。
そんなんでうまいこといくわきゃあ、なかろうたいね。逆になんでそれで、うまいこといくと思うねん。
「どうすれば勉強してくれるのか」を考える前に「どうして勉強が嫌いなのか」を考えないと、むずかしい。この問題は、解けない。
環境をととのえたり、解き方とか勉強の仕方とかを教えたり、習慣化を強制するまえに、「好き」にさせないとたぶん無理である。
「指導」と「操作」を勘違いしているというのもある。
指導とは、「みちびく」ということである。うながす、ということでもある。
なのに、どこで、なにを勘違いしたのか、「子どもを操作しようとする」のであった。
おぞましいことである。んなこと、できるわけなかろーも。
我が子とはいえ、そのいきものは「私とは、べつのいきもの」である。
子どもなんてもんはアホなんだから、褒められたらアホみたいに尻尾振って喜ぶ。
しかるに、「子どもに勉強してほしい親」の多くが、目を三角にして、
「勉強しなさいっ!」
「宿題しなさいっ!」
「成績伸ばせ!」
「いい大学いけ!」
みたいにキャンキャン「怒って命令」するばかりで、そんなことをされて、どうして勉強が好きになるであろうか。
それでもし勉強好きになったら一種の異常者である。変態である。心配したほうがいい。
とはいえ「褒める」には、良い結果が必要になるから「良い結果を出すまで褒められない」というジレンマが起きる。
ならば「結果にフォーカスしなければ良い」のである。
結果を褒めるのではなくて、「勉強をしていることをじたいを褒める」というほうが合理的である。
それならば、結果のいかんに関わらず、褒めることができる。親の方は、とにかくいろんな理由をつけて「我が子を褒める」ことをがんばれる。
勉強なんちゅうものは、とくに小学生のころは「やった時間」に正比例するところもあるから、よろこんで勉強していたらそのうち成績は良くなる。
良い点をとってきたら、
「おめー、スゲーなー! やるなあ! えらいえらい!」
といって、ワッシャワッシャ頭をなでておけば、飛び跳ねてよろこんで、勝手にまた勉強しよる。アホやなあ。かわいい。
「快感」をおぼえさせたら、あとはオートマチックに勉強するようになる。たった数回のコミュニケーションで、指導はこれで終わりである。
で、そうこうしているうちに、最初の頃はよくても学校の授業が高度になってくると成績が落ちることがある。
そういうときに、
「どうしたのっ!?」
とかいって心配したり、「次は頑張れ!」とかいって、囃し立てるのは逆効果のことがある。
というのも、いくら子どもがアホだといっても、成績が落ちたという事実は本人がいちばん認知しているところである。
多少ガッカリしているところもあるのである。
そこへ傷口に塩を塗るようなことをするのは、親として……のまえに、人間としていかがなことであろうか。
子どもというのは、基本的に親を心配させることに罪悪感を感じるいきものであるから、親が余計に心配すると萎縮してしまうのである。
だからそういうときは、
「ああそう。ええやん。勉強なんかできんでも、死にゃせん死にゃせん」
といって「気にさせない」というのがいちばんだと思う。
子どもに「気にさせない」ためには、親が「気にしない」ということも肝要である。
親子というのは「ミラーニューロン」によって感情が同調するという仮説もあって、親が心配すると子も心配する可能性がある。
「勉強さえできれば、人生なんとかなる」というのは完全なるデマゴーグであったことは、もはやくっきりバレている。
ほんとうにマジで、勉強なんかできなくても、良いのである。
できても良いが、できなくても良いという、わりとツマラン、どうでも良い存在、それが勉強である。
もうすでに「勉強が好き」という土台が完成しつつあるのである。
たった数回の成績の些細な上下に大げさに一喜一憂していたら、「良い成績を取らねばならぬ」みたいな完全に目的を誤った方向に進み始めて、そのうち「勝手に勉強が嫌いになる」可能性が高くなる。
結果にシフトすると人生がクソつまらなくなるのは、大人も子どもも、おなじである。
人間は結果を出すために生きているのではなく、いまこの瞬間を生き通すために生きているのである。
話は変わるが、「うっせぇわ」という音楽が若い人の世代で以前ウケていたのは、こういうことに関係しているような気もする。
この歌詞について不愉快だという人も多いらしいが、それはだいたいオッサン、オバハンであろう。
わがままだとか勝手すぎるとか言うが、あたりまえである。だって子どもが歌っているのだもの。
子どもが歌っている歌詞を真剣に受け止めて、それに不愉快だのなんだというのは、そのひとの精神年齢がむしろ子どもなのかもしれない。
しかしよく歌詞を読んで見れば、「なるほどな」と思うことも多い。
酒が空いたグラスあればすぐに注ぎなさい
皆がつまみやすい様に串はずしなさい
会計や注文は先陣を切る
不文律最低限のマナーです
はぁ?
うっせぇうっせぇうっせぇわ
これは、大人がわるい。
「なぜ、それをしないといけないか」ということをすっ飛ばして、「そうしろ、そういうもんである」と一方的強制的に教育している、というのがひとつ。
そしてもうひとつは「それを若者にやっていない」ということで、たぶんこれが最大の問題である。
酒が空いたじぶんのグラスに、だれかが気を利かせてサっと酒を注いでくれたら、どう感じるか。
食べやすいように串を外しておいてくれたら、どう感じるか。
ありがたい、ラクだ、と思うひともいるだろうし、逆にそれをイヤだ、うざいと感じるひともいるかもしれない。
飲み会でのマナーの基本は、単純である。
「人にしてもらいたいと思うことを、人にもしなさい。」
だから、「最低限」もなければ、「最高」もない。
そのひとが、相手のことを想って、そうしてあげたい、と思うことがいちばん大事である。
だから形が重要ではない。相手に関心を持ち、相手の気持ちや要望を察するという「愛」があれば、どのような形の親切をしても良い。
こちらが良いと思ってしたことでも、必ずしも相手が喜ばないこともあり、そのへんの齟齬を埋めてくれるのが「経験」と「教養」である。
だから勉強せい、というのである。
しかしいくら経験を積み重ね、教養を高めても、うまい具合に世間を渡れるようになったときに、それが「方法」のおかげだったと思うのであれば、失敗である。
方法が良かったのではない。世の中には様々な感性や都合を持ったひとたちがいるが、それでも高い確率で共有している、いわば「共通因子」のようなものが存在することを悟ったからである。
その共通因子に紐付いた方法論こそが礼儀であり、マナーであって、それをしておけば、必ずしもではないがじぶん勝手な価値観やじぶんの狭いコミュニティーで通用していた価値観を持ち込むよりかは高い確率で相手に喜んでもらえる。
所詮その程度の方法論で、貴重といえば貴重だが、絶対的な意義や価値を持つものではない。やはり重要なのは、経験によって共通因子を悟り、多様性を腹で理解することであり、つまるところは愛である。
形式だけが残り本質を失うという、日本人の最も弱い部分をこの歌は指摘してくれている。
親切の一形態にすぎないある種の方式をドグマ的に画一化するまえに、「飲み会で、人にされてうれしかったこと」を、まず経験しなければならない。
飲み会で、人にしてもらって、うれしかったことを人にしてみたら、喜んでくれた。
このしょうもないが、大切なことを繰り返すことで、正しいマナーが形成されていく。
人から愛されたことがない人は、人を愛することができないのである。
だから愛なしに、ひじょうにズルくさい、浅はかな「方法」だけを実行するから、みんなワケわかんなくなっている。
マナーの本質は方法論ではなく、愛である。
みんなでたのしく、仕事を忘れて羽目を外してワイワイガヤガヤやるのが、飲み会の目的だというのに、仕事の一貫として暫定的な上下関係を引きずったまま飲み会に強制的に若者をつれていき、しまいには飲み会なのに「教育」なんかしはじめるからイヤになるのであって、それはとても正常な反応である。安心である。
それでも会社の飲み会が好きだというのなら、一種の異常者である。変態である。アル中である。心配したほうがいい。
中には、会社の上司でも「この人と飲みに行きたい」と思う人もいる場合がある。
そういう上司はたいがい、飲み会で仕事みたいなダッセェ話なんかしないで、「おもしろい話」「ウケる話」「気づきのある話」をしてくれるものである。
そういう人は「飲み会の本質」を外していないから、若者にも嫌われないことが多い。
若者のような他愛のない、可愛らしい生き物さえも接待できないような者に、なんで顧客の接待ができるんじゃっつうことを、若者はきっと脳が柔らかいから直感的に悟っているのだと思う。
こどもの勉強もそうだけど、いつ頃からか日本人は「方法(ノウハウ)」ばっかり重視するようになってしまったんだな。
ズルくなったんだ。
「やりかた」ばっかり覚えさせて、「なぜ、そうするのか」ということが説明できない大人が大量発生してしまった。
その必要性を「あたま」で覚えさせようとして、「愛」「思いやり」を伝えてこなかった。
「年上は尊敬しなさい」では、ないのである。
礼儀を相手に強制するまえに「私はこの人よりも年上だが、尊敬に値する生き方はしているだろうか、この人を指導するに値するだろうか」と自問自答するほうが先である。
それが面倒である、つらいというのなら、一緒に仲良く酒のんで「いっしょに楽しむ」ほうが賢い。