危ないところであった。
もう少しで、飲み込まれるところであった。
愛犬が死んでからというもの、なんかガクっときて、ボーとして、どうにも気合が入らない。
寝付きが悪く、腰痛が復活し、頭痛や頭重があり、動悸がして、若干の吐き気、食欲不振、息苦しさ、なんともいえないモヤモヤ感などが継続したりしている。
元気がない。
最近はけっこう調子が良かったのに、いぜんの自律神経失調症みたいな感じが戻って来ている。
ネットで調べてみると「ペットロス」というのがあるのだそうだ。
愛するペットを失ったショックで、さまざまな肉体的・精神的症状が出る。
代表的な症状に、頭痛、腰痛、吐き気、食欲不振、ウツなどがある。
危ないところであった。
「飲み込まれる」
ところであった。
ぼくのこの症状が「ペットロス」なのかどうか、そんなことはどうでも良い。
そんなことは、どうでも良いのである。
愛犬を失って、とても悲しい。
そこまでは、許す。当然だ。
しかし、悲しいからといって、当然だからといって、行動に制限をかけることを許すわけにはいかぬ。
断じて、許すわけにはいかぬ。
だって、いくら悲しもうが泣こうがわめこうが、わが愛犬はもう戻ってこないのである。
絶対に、戻ってこないのである。
いきものは、必ず死ぬ。
このことは、この世では自然当然のことだから「あきらめる」べきことである。
操作できないのだ。
いっぽう、仕事や勉強、その他の日常生活はどうか。
これらは「あきらめる」べきことであろうか。
愛犬の死を理由に、放置して良いような優先順位の低いことであろうか。
操作できないことなのか。
「悲しみ」という情動反応を言い訳にして、
あきらめるべきことを、あきらめず、
あきらめるべきではないことを、あきらめるというのは、どうなのか。
おまえはそんなに、ばかだったのか。
そこに執着して、どうするつもりなのか。
執着すればどうになかることに執着するのなら、わかる。
しかし執着しても、どうにもならないことに執着して、いったいどうするつもりだというのだ。
よく考え直し、そのへんを走り回って筋トレをしたら、スッキリした。
ようし、やるか!
っていう気持ちが戻ってきた。
バチン、と音がするぐらい急に、頭痛も腰痛も、モヤモヤも消えた。
姿勢がシャキっとなった。
気合が一瞬で、戻ってきた。
ネット上では、あいも変わらず「無責任な癒やし」が横行しておる。
無理しなくていいんだよ。
頑張らなくてもいいんだよ。
泣いたっていいんだよ。
負けたっていいんだよ。
嫌なことからは逃げていいんだよ。
一番じゃなくて、オンリーワンでいいんだよ。
だまれ!
退け、サタン。
そういう「無責任な癒やし」にどっぷり浸かって、無理をしない漫然たる日々を過ごしていくと、待っているのは弱体化による破滅である。
嫌なこと、苦手なことにこそあえて挑み、
辛いからこそ、悲しいからこそむしろチャレンジして、
ときには全力を出し、無理をして、
頑張って、気合を入れて、
無駄だとしても、絶対に手が届かないとしても、
全力で頂上を目指せ。
全力を出し切って負けた人だけに「勝つことだけが全てじゃない」と言ってもらえる権利がある。
これを否定するものは、みいーんな悪魔だ。
下へ下へと向かう、破滅型のエネルギーだ。
こっちくんな!
シッ、シッ!
おまえらに付き合っていると、ロクなことがねえ。
やさしいやつは、不吉なんだよ!
厳しいやつこそが、幸福の青い鳥。
「やさしいことを言うやつら」には、ロクなのがいないんだよな。
甘言を弄するもんは、たいがい詐欺師だし。
御霊がほんとうにやさしくて、美しいひとに限って、厳しいことを言って、叱りつけて、全然甘やかしてくれない。
ネット上の甘言なんかに、騙されるな。そんなところに、逃げ込むな。
甘い言葉こそが、悪魔なんだ。
いつまでも、ふにゃふにゃと癒やされてんじゃねえぞ。