在宅ワークの過労には、ものすごく注意しよう。

2週間近く引っ張った今回の風邪(?)も、ようやく落ち着いてきました。

なにより、腹痛がほぼなくなったのが、ありがたい。

虫垂炎を疑うような右下腹部の痛みが続いていて、熱も最大で38.0まで上がりました。

とはいえまだ微熱は続いていて、座ったり立ったりしていると、熱が上がることがあります。

横になってじっとしていると、熱は下がっていることが多いです。

風邪というか「疲れ」なんだと思います。

いまのところ、それしか思い当たることがありません。

 

ぼくは在宅ワーカーの個人事業主です。

だから通勤もなく、営業もオンラインなので、外出すらほとんどする必要がありません。

そして、極端な話、休もうと思えば「思い立ったらすぐに」休むことができます。

通勤が必要な一般的な会社員に比べたら、とてもシアワセな勤務形態だと思います。

 

なのに、なぜ?

どうして、こんなに疲れてしまったんだろう。

最初は「デスクワークだから体力が落ちたのかも」と考えていました。

あるいは「けっこう根を詰めて仕事をしていた時期もあるから、肉体疲労というよりは精神疲労だったのかもしれない」とも。

もしくはもっと単純に「トシなのかなあ」、または「じつは俺、この仕事嫌いなんだろうか、向いてないんだろうか」とさえ考えました。

 

まあ、それもあるのかもしれません。

でも、もうすこし引いて客観的に考えてみたら、ものすごく単純な「オチ」に気がついたのです。

いわば、在宅ワーカーの盲点

 

たしかに、体力的にはラクなのです。在宅ワークは。

だって朝起きて、寝室から仕事部屋まで行けば、もうそれで「出勤」なのですもの。

お客さんのところに行って気を使う必要もなく、くだらない会議もない。

だれにも邪魔されず、いますべきことに集中できます。

しかしじつは、この「在宅ワークの最大のメリット」こそが、「最大のデメリット」だったのでした。

 

一般的な会社員を考えてみます。

朝起きて、顔を洗い、着替えて、朝食をとる。

家から駅まで歩く。

電車に乗り、会社の最寄り駅まで行く。

そして今度は、駅から会社まで歩く。

こんな感じで「仕事開始」までには、最低でも上記のタスクがあるわけです。

毎日やっていると気が付かないものですが、これはそこそこ、しんどいことです。

少なくとも、自宅と駅、駅と会社の間は歩かないといけませんからね。

ぼくのように「ベッドから作業部屋まで」というのとは、わけがちがうのです。

 

断っておくと、ふだんぼくは最低でも30分は散歩などで歩くようにしています。それも、山裾の坂道をです。

だから「歩かないから体力が落ちた」というのは、ちょっとすぐにはあてはまらないような気がします。

じつはぼくも、ここで最初につまづいたのです。

「ラクをしているから体力が落ちた」という論法の罠。

ハングリー・モチベーション世代の、偏った価値判断ですね。

 

人間とは、本能的に「パワーセーブ」を行うのだそうです。

会社員の方なら「通勤する」という体力だけは、温存しておかねばなりません。

だから自身がどれぐらい疲れているかという判断も、「全体の余力」から「通勤等に要する体力」を差っ引いた「純労働用体力」のなかで計算をします。

いや、そんなことだれも考えてないよ! と思うかもしれませんが、じつは、本能的に計算をしている。

無意識というのは、偉大なのです。

だから「会社から一歩も出られなくなるほど疲弊した」ということは、あまり起きないわけです。

とてもシンドイが、いちおう帰宅することはできる。

通勤などの必須パワーをある程度残した状態で「もうギブアップ」という判断を、上位意識に伝達するのでしょう。

疲労というのは、絶対的なものではなく、あくまで相対的なものなのだそうです。

人間とはほんとうに、よくできています。

 

いっぽう、在宅勤務のばあいは、どうか。

「通勤等に要する必須パワー」は、ほとんど不要なのです。

どうでもいいが気をつかう会議、めんどくさいけどしなければならない後輩の教育、飲み会、社交辞令。

そういった「仕事には直接関係ないけど必要なこと」が一切不要なので「純労働用パワー」イコール「全体の余力」に、限りなく近くなっていきます。

ということはつまり、「もう限界」と感じたときには、ほんとうに余力がない

呼吸する、トイレに行く、水を飲む、それぐらいのパワーしか、もう残っていないのです。

だってふだんからベースプログラムに「よけいなこと」が、一切組みこまれていないのですもの。

さすがの無意識さんも、やっていないことまでは計算できません。

したがって、ほとんどの体力を、仕事で使い果たしてしまう。

 

会社員の方ならば「会社を休む」というだけで、あらかじめ別枠としてセーブしていた体力「通勤に要するパワー」を、回復に回すことができます。

しかし在宅勤務の場合は「休んだって家」。なーんにもかわらないのです。

通勤用のセーブパワーもありません。

倒れたときは、ほぼ純粋に、もう「電池切れ」になってしまう。

あるとすれば「座っているのに使うパワー」と「寝ているのに使うパワー」の差分ぐらいなものです。

これは、回復に時間がかかりますよね。

 

在宅勤務をするようになってから異様に風邪の治りが遅かったり、疲れやすくなってしまったというのは、案外こういったメカニズムかもしれません。

運動不足や精神的疲労も、もちろんあるとは思います。

しかし最大のポイントは「余力を残す必要がないから、余力がなかった」ということなんだと思います。

習慣とは、おそろしいもの。

それは、まさにこのことを指しているのだと思います。

 

だから思った。

ふだんから「業務以外で使うパワー」の比率を、もう少し上げておいたほうがいいな、と。

それが家事なのか、運動なのか、趣味なのか、どれがいいのかはわかりません。

できれば「絶対に必要なこと」のほうが、良いような気がしますね。

「毎日30分歩く」「筋トレをする」

じつはこういうのは、あまり意味がない感じがします。

「強制力がない」からです。

どうしても仕事を優先しなければならないことがあれば、排除することが可能だからです。

通勤は削除できない必須のパワーですが、任意の運動はあくまで自由意思によるものです。

これは、無意識さんに、伝わらない。

 

仕事ばっかりしていると、仕事だけに最適化された身体になってしまうのですね。

それはつまり「余裕がない状態」。

それはつまり、危険だということです。

在宅ワークには、余裕があるように見えます。

しかし実際には、使い方を少し誤れば、世界でいちばん余裕のない生活になりえます。

ライフ・ワーク・バランス。

在宅勤務とは、ライフとワークが完全融合してしまうので、むしろバランスがとりにくい側面もあるのだと思います。

純粋なものごとほど、危険である。

気をつけよう。

 

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