最近は先日友人に紹介されたこともあってとくに「ラブコメ」にハマっている。
ラブコメマンガで泣くおじさんになろうとは、夢にも思っていなかった。
一応読書は趣味なのだが、この「読書」についてぼくはかなり偏っていたのではないかと最近思うことがある。
本といえば活字みっしりのヤーツ、という強い思い込みがあり、よって漫画や雑誌などは本ではなく、それを読む行為は読書ではない、という強い観念を持っていた。
だからぼくがこの50年間好んでよく読んできた本は哲学や思想、民俗学、歴史などの本であり、どちらかといえば学術的なものが多かった。
軽い読み物としては澁澤龍彦という人のエッセイをよく読んでいて、小説もあまり読まなかった。
ざっくり言えば「堅いのが、好きなの……」というところなのかもしれない。
最近は「マンガ」をよく読んでいる。
そしてそのマンガに感動し、とうとう泣いてしまうことも多々ある。
なんとなくであるが、順番が逆のような気がする。
幼少時〜少年時代はマンガなどの軽い読み物に接し、青年ぐらいから徐々に文学方面に進行していって、中年〜実年以降に哲学や思想などの堅く重い文献を読むようになるというのが一般的なのではないだろうか。
しかしぼくはこれを正確に逆行しており、むしろ幼少時〜青年期に堅く重い文献に接し、50歳になってからマンガを読み出してしまったのである。
ぼくはダイジョウブなのであろうか。
ふと不安になる。
読書の有用性については、一般に「教養を高める」と言われることが多い。
またとくに文学系の読書については教養だけでなく、豊かな情緒の育成にも効果があるともいう。
マンガをよく読むようになって知ったのは、そういう意味でマンガは文学と同じだ、ということである。
情緒というのは物事に接したときに起きる様々な感情のことを指す。
また豊かな情緒というのは、とくに「人の気持ちが理解できる」という基本機能の上に成り立っている現象でもある。
人の喜びや悲しみ、楽しさや辛さというものを我が事のように生々しく感じられる感性を持っていなければ、豊かな情緒は決して醸成されることはない。
純文学系の読書が豊かな情緒の育成に寄与するというのは、虚構上の再現とはいえさまざまな種類の「人間の感情」を擬似的に経験することができるからだろう。
ならば、マンガも機能としては同じである。
マンガは確かに語彙としての情報量は少ないが、絵であるがゆえに非言語の情報は豊富であって、決して総情報量としては文学に引けを取らない。
直感に訴えかけやすいという利点もある。
むしろ直感に訴えやすいがゆえに、ダイレクトに情緒に刺激を与える可能性も秘めている。
などとまた理屈っぽいことを言っているけれども、ようするに好きになってしまったんだなあ。
マンガ。
ラブコメで泣いてしまうのは、じつはそのストーリーによってだけではない。
「恋とは、そんなに辛いことだったのか」
ということを知り、非常に申し訳ないという悔恨の涙を流す、といったほうが正しいような気がする。
若い頃に読んでいたなら、おそらく主人公に自分を重ね合わせていただろうと思う。
しかしおじさんになってくると、そうはならない。
登場人物が恋に悩む姿を見て
「えっ、そんなに!?」
とまず驚き、そして「俺はなんということをしてきたのだろうか」と戦慄が走る。
そして可愛そうになり懺悔の涙を流すのである。
ラブコメの重要な要素として「告白」がある。
思いを寄せる相手に、わが思いを相手に伝達するという行為である。
ラブコメにおいてはほぼ100%、この告白という行為をするにあたって登場人物は深く思い悩む。
相手に告白することよって、今までの友人としての関係性が崩壊してしまうのではないか。
むしろ嫌われてしまい、関係はもはや断絶してしまうのではなかろうか。
じぶんは強い恋心を抱いているが、相手がそうではなかった場合、フラれたらもうじぶんはショックで再起不能になってしまうのではないか。
待てよ、そもそも私はこのひとのことを本当に好きなのだろうか、と自己認知すら混濁する。
そんなようなことを四の五の悩み、しかし臆病のせいでこのまま放置しておけばこの人はきっとほかのだれかに取られてしまうであろう。
だから必ず、行動せねばならない。突撃せねばならない。しかし、怖い。
そんな強い葛藤を乗り越えて、登場人物はいずれとうとう、告白をするのである。
ぼくも若い頃、たまたま何人かの女性に告白をされたことがある。
しかし当時はすでに彼女がいたこともあり、いつも「食い気味に」断っていた。
そのことで、目の前で泣かれたこともあるが男子校で育ったこともあり、彼女たちの気持ちなど何ひとつわからなかった。
そんなことは誰も教えてくれなかったし、ぼくが当時読んでいた本にも一切書かれていなかった。
非常に冷たい視線で論理的に無感情にぶった切っていた。
泣こうがわめこうが、放置してそのまま立ち去っていた。
また、恋人は手に入れるものではなく育てていくものだという謎の観念もあり、「好きな人をゲットする」よりも「好きになる努力」を重視していた。
1日しか付き合っていない美人より3年付き合っている気心の知れたブスのほうが総合的には可愛いわけで、そもそもヒトのことをブスとか言えるような立派な顔をしてるのかお前は、という話もある。
ぼくはつまり「ロマン」が嫌いなのである。
ラブコメを読むようになって、懺悔した。
ぼくにはロマンはなかったが、相手にはあったかもしれないのである。
女性が男性に告白するというのは、それほどに勇気の必要なことだったのか。
ぼくは「育てる」というズルい方式をとっていたから、まったくわからなかった。
彼女たちは何日も思い悩み、とうとう勇気を振り絞って、決死の覚悟で告白してくれたのかもしれない。
だからあんなに泣いていたのかもしれない。
ぼくはなんという、可愛そうなことをしてしまったのだろう。
そう思うと、涙が止まらなくなるのである。
申し訳なかった。
むろんこちらには悪意は一切ないし、ぼくだけが悪いということはないと思う。
しかしもっと他の言い方や、やりかたはなかったのか。
知らないということは一種の罪である。
今からでも電話して謝りたい気分にもなるが、残念というか、幸いというか、連絡先はもう知らない。
人間は、恋からは逃げられない。
だからこそ、マンガでもなんでもいいから若いうちにしっかり読んでおいたほうがいいと思った。
恋を成就させるノウハウは載っていないかもしれないが、恋するひとの「気持ち」は学ぶことができる。
哲学や思想や心理学の本をいくら読んだって、学術書をひっくり返したって、ひとの気持ちはなにひとつ理解できない。
その点、マンガはりっぱな教科書だと思う。