ついつい、自由ということと、自在ということを履き違えてしまうことがあります。
妨害なくじぶんの好きなようになんでもできることを「自由」と思いがちだけど、でもこれは「自在」のことなんですよね。
もともと自由というのは「抑圧からの開放」ということのようです。
いわゆる自由という思想が発達したのは主にヨーロッパのようで(そう、自由というのは思想の一種なんだそうです)、かつて中世ヨーロッパは宗教や領主からの抑圧がたいへん大きく、財産はおろか命さえもかんたんに奪われるしまつで、そこからの開放のことを「自由」としていたようなことが多分にあるのだそうです。
自由とは封建的、中央集権的な社会構造へのアンチテーゼという側面もあったのかもしれません。
またそのような社会構造的な意味での自由ということになると、個々人の自意識もしっかりしていなくてはなりません。
個人の権利というものを明確に定義する必要があって、同時に「人権」という発想もうまれてくる。
いっぽう仏教用語にも「自由」はあって、これがおそらく英語の「free」に訳語としてあてがわれたのだろうと思われます。
仏教で言う自由は「自らをよりどころとし、他のものをよりどころとしない」という意味らしい。
だから仏教でいう自由には「independent(独立)」というニュアンスも、多分に含んでいたものと思われます。
だから西洋式の自由にしろ、仏教的な東洋的自由にしろ、そこには「自律性」という共通点があるように見えます。
しかるにぼくは自由ということを、たまに「制約がない」というふうに考えてしまうのです。
自分以外の誰かからの強制力というものがないことを、自由と考えたりしてしまう。
確かにそれも自由の一側面ではあるけれど、そこに至るためには「自立・自律」ということも同時に考えなくてはいけないのかもしれません。
誰かが決めた「ルール」から逃げ回るだけでなく、「価値観」からも脱出しなくてはならない。
ひとやマスコミ、社会が言う価値ではなく「自らに由(よ)った」価値観を創出せねばならない、ということになるのだろうと思います。
では、そのためには、どうすればいいのだろうか。
結局「自らに由(よ)ることができない」第一の理由は、「こころのコントロールができない」ということが、多分にあるのだろうなあと思いました。
心配があれば、その心配なこころの状態に、拘束されてしまう。
強くこだわっていることがあれば、そのこころの状態に、拘束されてしまう。
いやだという気持ちがあれば、そのこころの状態に、拘束されてしまう。
「自らに由(よ)る」ためには、「自」とはなにか、どこか、ということが明確でなければ、そこを典拠にはできないわけです。
座標がわからないのに、そこを軸とすることはできない。
心配しているこの自分は、ほんとうの自分なのか。
こだわっているこの自分は、ほんとうの自分なのか。
いやだと思っている自分は、ほんとうの自分なのか。
四六時中、ころころ変化するこころの状態を「自分」とするのか、あるいはその状態の根っこにある不動の「何か」を「自分」とするのか。
「ほんとうの自分」がわからなければ、同時に自由もありえない、ということになります。
だから思ったのですよね。
ぽくはパニック障害だの自律神経失調症だのでぐずぐず言っているけれども、この症状そのものは「ぼく」とは、いえないのではないか。
ぼくにあらわれている症状ではあるが、ぼく自身ではない。
おなじように、症状によって引き起こされるさまざまな感情、たとえば不安とか、恐怖とか、怒りとか、そういったものも、「ぼく」ではない。
ぼくにあらわれている感情ではあるが、ぼく自身ではない。
だからつまり、ぼくはパニック障害ではない、といえる。
またぼくは、自律神経失調症ではない。
本質的にそういった「あらわれたもの」「結果的なもの」とは、「ほんとうのぼく」は無関係である。
「ぼく」は、そういった表層的な「状態」とはまたちがう、深いところに存在している。
ような気がする。
とまあ、下手するとちょっとアタマオカシイ系の話になりそうですけれども、ようするに「病気も自由への修行だ」と思うようになったのですよね。
「本質的な自分」ではない、そこに「あらわれている」という結果に過ぎないようなもの、つまりは影のようなものにあたふたしているようでは「自由」になれないのです。
動悸がした、では、すわ、心臓病ではないか。
そんなことをいちいち考えているようでは、絶対に自由になれない。
よくよく見てみれば、じぶんのこころの中にさえ、「じぶんではないもの」あるいは「じぶん由来ではないもの」がたくさんいる。
ていうかむしろ、そっちのほうで大半を埋めているぐらいだ。
「自らをよりどころとし、他のものをよりどころとしない」
そのためには、本質的な意味での「自立」が必要なのだと思いました。
その点パニック障害というのは、格好の修行材料なのかもしれません。
最も本質的で根深い「死への恐怖」が、メイン・テーマだからです。
これに打ち勝つ、とかではなく、それに「とらわれない」練習。
怖いものは、怖い。
怖いものを怖くなるのが目標なのではなくて、怖いと思っても、それにいちいちとらわれないようになることが、目標。
それは、発作が出るたびに、できる練習。
逃げ回っていては自立できない……というよりも、そもそもからして「逃げられない」のです。
中で起こっていることなのです。
だからこそ、よい練習になるのではないか。
これもまた、修行である。
自由のための、修行である。
そう考えると、すこしだけ、気が楽になります。
逃げ回るのでもなければ、張り倒すのでもない。
「それは私とは本質的に別個の存在である」ということが見える角度にまで「移動する」というだけのことなのかもしれません。
重なって一体に見えていたものでも、すこし横から見れば、全く別のものだった。
何を言っているんだおれは。
こういうことを思うわたしはいったい、だれなのだろうか。
なーんつって。
それも俺だ。
寝るか。