ググらない練習。

「ググレカス」なるコトバが、ありましたね。

ひとにいちいち聞く前に、Googleなどで自分で調べてみろこのカスが、という意味です。

 

ぼくもかつては、そのように思っていました。

ホームページを作るという仕事柄、ネットはとても良く使います。

ネットはとても便利で、キーワードを入れるだけで、いろんな情報が手に入ります。

だからわからないことがあったらまずGoogle先生に聞く、という習慣が身についていきました。

これをせずに、すぐに人を頼って聞くひとのことを軽蔑していたところもあります。

調べる手間を惜しんで、ひとの時間を奪っている泥棒だ、とさえ思っていました。

 

しかし。

ぼくは最近、「ググる」ということの危険性を感じ始めています。

もしかすると、かつて「ググレカス」と言われていたひたちのほうが、優等なのではないか。

むしろ、すぐにググる人のほうがいろんな意味でヤバいのではないだろうか。

「ググレカス」ならぬ「ググるカス」になっていくのではないか。

 

ぼくには自律神経失調症やパニック障害、外出恐怖などの不具合があります。

そんなぼくは、症状のいちいちを、「ググる」ことがよくあります。

「息苦しい 自律神経」

「焦燥感 原因 神経」

そんなワードで、じぶんの症状が何なのか、どうすれば改善するか、治るのかなどを探したりします。

 

わりと、確信しているところがあります。

ぼくが10年以上さまざまな不具合を引きずっていたのは、この「ググる」習慣によるところも大きいのではないか、と。

 

ぼくには、こころがあります。

そしてこの「こころ」は、基本的には、すごく動き回るものです。

しかしいっぽうで、「強く固着する」ところもあるのです。

ある一定のテーマにへばりついて、全く動じなくなることがある。

ふと思い出した音楽のフレーズがずっとアタマから離れない……ということは、よくあることです。

キライなひとをずっとキライなままでいることも、苦手なことがずっと苦手なままであることも、すべて「こころの固着機能」が過剰に発動した結果です。

そしてこの固着機能は、「不安・恐怖」によって、さらにパワーアップするのです。

 

じぶんが感じる症状のいちいちを、Googleなどで調べる……。

動機は、こうです。

不安だから、コワイから、何か安心できる情報がほしい。

もうすでに、不安と恐怖という、こころの固着機能を強化する条件を持っています。

そしてネットの世界をうろつきまわる。

さて、残念ながら、ネットの情報を読んで「心底安心した!」ということは、非常に少ないです。

だって、調べて治るわけがないのですもの。

安心が欲しくて、安心を探しているだけ。

 

じぶんの症状を正しく調べるためには、じぶんの症状を強く意識しなければなりません。

なんどもなんども、毎日毎日、じぶんの症状をチェックし、それを文字に変換し、調べ、探す。

こんなことを繰り返していると、こころがじぶんの症状に「固着」してしまうのですよね。

意識しないほうが良いことでも、意識し続けてしまう。

そもそもの話として、神経的な不安がある場合に最も必要なことは、リラックスをすることです。

しかし、「探す」「調べる」「観察する」というのは、リラックスと対極にある状態ともいえます。

何事かをサーチするというのは、神経を鋭敏にしていなくてはできません。

数ある検索結果から、じぶんの症状に合致し、改善見込みのあるものを探し続ける。

こんなことを繰り返して、神経が疲弊しないほうがおかしいです。

じぶんの症状に、こころが固着しないほうがおかしい。

 

調べたって、治らないのです。

ネットで出てくるサプリを試したって、体操法を試したって、入浴法を試したって、治らないのです。

なぜならば、そういう行動は「調査と仮説と検証」だからです。

方法を調べ、それに効果があるだろうと仮説を立て、それが効いたかどうかを検証する。

この「検証」もまた、自身の症状への意識のベクトルを固着します。

こころが、ゆるんでいない。

ずっと、とがっている。

これは、疲れないほうがおかしいです。

 

便利なものがあると、人はそれに頼るようになります。

これが「依存」のはじまりです。

どこかに、答えがあるのではないか。

答えはほんとうは、自分自身のなかにある。

なのに、便利なGoogleという道具があるばっかりに、それに頼り、答えが「どこかべつの場所」にあるのでは、という妄想を膨らませていく。

 

そして「考えるチカラ」を失っていく。

思い出すちから、今知っている情報同士を結合させるちから、身の回りのことで解決するちから、現状を正しく認知するちから、そういうものが、どんどん低下していく。

検索すれば数多くの結果が得られるため、考えることを、サボるようになる。

感じることを、サボるようになる。

つまり、どんどん、脳の上位機能が低下していく。

脳の上位機能が低下すると、感情が抑えられなくなったりする。

妄想が増えるようになる。

 

治るわけない。

 

昔は、ネットなんてなかった。

困ったことがあれば、知っているひとに聞いた。

経験者に、直接会って聞いた。

この「ひとに、直接、聞く」というのは、サボっているように見えて、じつはものすごくアタマを使う作業です。

たいへん、めんどくさいのです。

相手の都合を考え、じぶんの考えを整理し、伝え、相手の機嫌も察知し、相槌も必要、感謝のことばも必要。もしかしたら、回答を拒否されるかもしれない。

幸い相談に乗ってくれたとしても、相手の経験を言葉からトレースしていって、それに感情移入し、経緯を想定する。内容のひとつひとつも、しっかり覚えていかなくてはいけない。

同時にいろいろなことを考える必要があります。

人に聞く、というのは、手を抜いているように見えて、じつは一種の脳トレにもなっているのです。

いっぽう、検索は、たいへんに、怠惰です。

気を使わなくていい、相手の都合も関係ない、言い方に気をつけなくて良い、時候の挨拶も不要、お礼のことばさえいらない。

ただ、「答え」だけを請求する。

必要なのは「さがすちから」だけ。

こんなもん、アホにならんほうが、おかしいやろうも。

相手がいないぶん、意識はよけいにどんどん、どんどん、じぶんの内側と、過去に向かっていく。

自分本位が、加速する。

「わたし」がどんどん、大きくなっていく。

 

もう、ググるな。

最近ネットに思ったとおりの答えがなかなかみつからなくて「いかがでしたかブログ」ばかりになったからググるのをやめる、のではなく。

そもそも、何かを知ろうと思ったときに、ラクをしていたのでは、身にならないのですよね。

便利は、ひとを、堕落させる。

 

ググらない練習。

じぶんで考える練習。

ヒントなしに考える練習。

キーボードではなく、足で調べる練習。

「生きた人間」を頼る練習、「生きた人間」の話を聞く練習。

ぼくにはすこし、これが必要。

これを思い出すことが、必要です。

 

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