ほとんど遺伝

なんかー、肝心なこと忘れてたような……。

努力とか自分磨きとか向上心とか、いろいろ言ってるけれどもサ、チベたい現実をフト思い出してしまったのであります。

ほとんど遺伝。

 

もちろん、全部が全部じゃないんですよね。

でも遺伝ということは、もうどうしようもない力学をもってその人を規制しているところがあります。

もしかしたらこれを、インド哲学とかで「カルマ」っていうんじゃないか。

 

親友のひとりに、いわゆる「不良」といわれる子どもを預かる学校の先生がいるんですね。

生徒想いのいい先生で、やさしい奴なんですけど、言ってました。

「悪いことをする子のほとんどは、遺伝だね」

彼はそんなことを言うタイプではないのです。

子どもの無限の可能性ということも信じているし、そのために献身的に教育をしている人です。

でも「残念ながら」という。

問題を起こす児童の両親は、かつて問題児であった。

そんなことは彼らの世界ではもう常識であって、なんにも珍しくないことなのだそうです。

 

発達心理学におけるかなり古い考え方に「タブラ・ラサ」というのがあります。

「白板」という意味ですね。

人はみな生まれたときは真っ白な板のようなもので、さまざまな経験によって、そこにいろんな色がついていく。

だから人はみな無限の可能性を秘めているという、まあちょっとしたファンタジックな思想です。

しかし近年ではやはり先天的に持っている素養というのは厳然としてあるのではないか、という考え方が主流になりつつあるようです。

「子は親を映す鏡」ということわざもあるように、このことはべつに珍しい考え方でもなんでもありませんが。

がんばろうが、なにをしようが、結局「遺伝」の檻から脱出することはできない。

 

ぼくはもうかれこれ50年近く生きてきましたが、このことを身を以て感じることが多いです。

30台後半には、パニック障害になったり自律神経をぶっ壊したりいろいろしてきました。

このことについて「生活習慣や経験、考え方などに原因があるんだ」と決めつけていました。

しかし母と話をしていて、確実に思うのです。

ぼくは結局、母親とまるで同じ人生を送っている。

母も30台後半に自律神経が異常におかしくなった。

創価学会に入れ込みだしたのも、そのへんです。

ぼくはぼくで、30台後半にパニック障害を発症しましたし、僕の場合はそこから「ヨガ」というイデオロギーに傾注していきました。

そもそも、宗教的なイデオロギーに対して親和性が高いのもそっくりです。

30台〜50台の間の細かい体調の変化もほんとうに似たようなことばっかりなのです。

心配性で臆病なくせに、どういうわけか異様にハラが座っているところがあるのも同じ。

いつもグズグズ体調不良を訴えている割には結局丈夫で、妙に陽気であることも同じ。

ああ、気持ち悪いなあ、と思うぐらい同じ。

母は50台前後に創価学会を脱退し、ぼくは最近ヨガや仏教思想から突然離れていった。

捨てようと思ったのでもなく、捨てたほうがいいと思ったのでもないのです。

必要なくなったから、捨てただけである。

 

こうなってくると、ぼくはもう、残念でならないのです。

10年前にぼくは決心した、「このパニック障害の原因を突き詰めてやる。そして自力で治してやるんだ」と。

あまり意味がなかったのかもしれない。

というのも、50歳を目前に控えたいま、ぼくはどんどん、調子が良くなっている。

なにを、どうやっても治らなかったことが、いまになって、改善してきている。

母はいった、

「50歳ぐらいから、きゅうに体調がよくなって、元気になるわよ」

ほんとうだった。

 

努力なんか、あまり関係がなかったのです。

もちろん、そういう努力をしたことで、いろいろな勉強にはなったし、別のところで良い効果があったことは認めます。

でも根本的な部分の改善には、あまり役立っているとはいえない。

まったく因果関係なく改善している部分があって、これはじつは核の部分であったりする。

 

ちょっとあの例の「誤ったヒューマニズム」に毒されすぎていたのかもしれません。

運命は自分で切り開くものであるとか、願いとして叶わざることなしとか、向上心こそ重要であるとか、努力こそ美徳であるとか。

もちろん、それはウソではないです。

ウソではないが、「それはすべてではない」。

そういう側面もある、ということだけにすぎない。

どうしようもない部分もあって、それは想像以上に、強大な骨組みを持っている。

それを壊してしまったら、ぼくはぼくでなくなってしまうほどの強大な骨組み。

 

残念ではある。

でもいっぽうで、むしろ逆に、気が楽になった。

 

もう、がんばらなくていいんだ。

 

治る時はなんの理由もなく、きゅうに治る。

そういうふうに、できている。

なんの理由もないということは、なにもそんなに神経質に生活を規制しなくても良いということだ。

むろん、バカじゃあるまいし、だからといってわざと無茶苦茶な生活をすることはない。

普通にしていればよい、ということなんだ。

努力するから、治るんじゃない。

治る日は、じぶんで作り出すのでもない。

「待つ」のである。

 

これをむかしから「日にち薬」というのかもしれません。

なにをしたから治る、なにをしなかったから治らないではなく、じつはただ「スケジュール」によって制御されていたのかもしれない。

 

残念ではある。

残念ではあるが、気楽である。

がんばるのではない。

「おまかせする」

のである。

生活のルールは、常識的なことだけをしていればよい。

良くなる、悪くなる、そんなことは努力と一対一の関係になく、もっとも影響されるのは「先天的な改変不能なプログラム」である。

 

運命論ではない。

運命論と因果論のハイブリッドであります。

努力がすべて無駄なのではない。

変えられないところを変えようとする努力が、無駄なだけである。

だからいちばんだいじなのは「見極めるちから」ですね。

それは変えられることなのか、変えられないことなのか。

変えてよいことなのか、わるいことなのか。

これを見ようともせず、こころに炎症を起こしたまま、ただただ治すことに執着してしまったとき、このちからは完全に消え失せる。

苦しみの時間を無駄に過ごしていく。

 

そして、残酷である。

最も変えたい部分こそ、変えられないものなのであるね。

こうしたばあいは、変える努力をするよりも「変えたいと願う、わがこころ」そのもののほうを変えていく必要がある。

これを「柔軟性」というのだと思う。

あきらめるべきところは、さっさとあきらめる。

あきらめないのは強いからではない。

なんにも見えていないだけなのである。

 

 

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