あるべき場所へ

禅がなぜ掃除や整理整頓を重視するのかということについて、最近思うことがあります。

「あるべき場所へ」

禅はこれを重視しているのではないか。

 

掃除や整理整頓の目的は「清潔」ということだけではないです。

本質的なところでいくと、その目的は「あるべき場所へ」ということかもしれないです。

部屋の中はゴミやホコリの「あるべき場所」ではない。

ゴミ箱が、ゴミやホコリのあるべき場所だと思います。

洋服や使った道具など、それらも使った場所があるべき場所ではない。

使い終わったらあるべき場所に戻してやるということが、整理整頓ということになる。

 

モノに「あるべき場所」があるように、意識にも「あるべき場所」があるのではないか。

もしかすると座禅というのは、使った道具をあるべき場所に戻すように、使った意識をあるべき場所に戻してあげる作業なのかもしれない。

では意識の「あるべき場所」とは、どこか。

それは概念的には「いま・ここ」で、肉体的には「丹田=下腹部」なのかもしれません。

刀を鞘に収めるように、意識を仕舞うところ。

案外、このことは普段の生活で忘れがちなのであります。

 

こころを、仕舞う。

これを習慣化すると、生活の自由度が高くなるのではないか。

モノを使いっぱなしであちらこちらに置いたままにしておくと部屋が狭くなってしまいます。

しかし毎度「あるべき場所」に戻してあげれば、部屋を広く使うことができる。

同じように意識を使ってそのままその場所に置きっぱなしにしておくことで、こころが狭くなっていくのだと思う。

意識を使い終わったのなら、毎度意識は「あるべき場所」に戻しておく。

その作業こそが、座禅なのではないか。

 

行住坐臥これすべて禅……ということを、ファンダメンタルに字義通りに解釈すると、どうしても行動の抑制ということになりがちです。

したいことをせず、いやなことを我慢するというような、ストレスフルなことになりそうである。

もしかすると「行住坐臥これすべて禅」というのは、ある「境地」を指しているだけであって、べつに「目指す」ということではないのではないか、と思ったのであります。

目指してしまうと、じぶんの行動をずっとチェックし、抑制しなくてはならなくなります。

それは「考え続けている」ということで、禅が目指す三昧の境地とはむしろかけ離れているような気がするのであります。

部屋や家の掃除・整理整頓を習慣化すれば、徐々に部屋が広々してきて自由に動けるように、「こころを仕舞う」ことを習慣化していけば、思考や認知がひろびろしてきて自由になっていく。

この状態に自在に至れるようになったことを「行住坐臥すべてこれ禅」というのではないか。

到達点の形容である「表現」にしか過ぎなかったことを、誤って「行動指針」と曲解することで、厳しく、硬直した、ひじょうに息苦しい生活になっていくのではないか。

 

基本的には、なにをしたって、良いのである。

興奮しようが、こころが乱れようが、こころが暴れようが、べつにかまわん。

ただし、できるだけ毎度こころを「あるべき場所」に戻してあげる。

これが習慣化してくると、いつでもココロを鞘に収められるようになるのではないか。

掃除が習慣化してくると、なんの苦労もなく掃除ができるように。

こころの整理整頓ができれば、感情に足元をすくわれ、身動きが取れなくなったり、すっ転んだりするということが減っていく。

だから掃除や座禅は「トレーニング(修行)」と言われるのではないか。

ココロを鞘におさめる、トレーニング。

意識をあるべき場所に戻す、トレーニング。

生きている以上、ココロや意識は必ず動くし、まったく使わないわけにはいかず、むしろしっかり使っていくほうが良いです。

そこに住んでいる限り、そこで活発に生きていればこそ、家や部屋の掃除と整理整頓はずっと続けなければならない。

同様に、溌剌と生きている限りココロの整理整頓も続けていかねばならないのかもしれません。

これには、終わりも、完了も、完成もない。死ぬまで続く。

 

……と考えたら、気が楽になった。

汚してはいけないのではなく、汚れたら掃除をすれば良いのである。

ココロを乱してはいけないのではなく、乱れたら仕舞えばよいのである。

あるべき場所に戻す。

これさえ忘れなければ、すくなくとも「混乱する」ことだけは、避けることができそうだ。

 

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