先日バビビビとヒラめくところがあって、あるWebサービスを思いつきました。
コロナで困っているひとを助ける目的のもので、利用料は完全無料。
使う人も、運営者のぼくも、ほとんど手を煩わせないようなシステムにしました。
似たようなものはじつはあちこちで出てきているんだけど、こっそり自画自賛してる。
おれのヤツのほうが、イケてるぜ。
申込者は日に日に増えていっているのですが、ふしぎなことに気がついた。
いままでこういったサービスというか、そもそも仕事だと、文句をいうひとがとても多いです。
あれをこうしてほしい、これはもっとああしてほしい、いろんな注文がある。
それでお金をもらっているからしょうがないけど、今回は全然ちがった。
ああしてほしい、こうしてほしいというオーダーが一件もない。
そしてメールに必ず、書かれている。
「ありがとうございます」
こんなにたくさんの「ありがとう」を一時期にもらったことは、うまれて初めてかもしれない。
やってよかった。
そして、思った。
「この世界のひとって、やっぱり基本的にはいい人が多いんだ」
すこし、感動をしてしまいました。
愛には愛が、かえってくる。
これはウソじゃなかったんだ。
長年仕事関係で苦労しすぎて、たまに思うことがありました。
「この世には、生き馬の目を抜くような残忍で狡猾なひとがいる」
そうかもしれない……っていうか、実際にそうだった。
でもそれは「そういうフィールド」でぼくが活動をしていたからなのかもしれない。
「おれのために」っていうのがあったから、「おれのために」がかえってきたのかもしれない。
「あなたのために」には「ありがとう」が、かえってきた。
ぼくはこういうことは「綺麗事だ」と思っていました。
甘い、とも思っていた。
でも案外、そうでもなかった。
むしろ逆かもしれない。
愛には愛がかえってくる、このことを「甘い」と思うことこそが「甘い」のかもしれない。
机上の空論の、綺麗事なのかもしれない。
今回のぼくは、ハラが座っている。
もしかしたら今回のサービスでも難癖をつけてくる人はいるかもしれないので、それに備えて利用規約も作ったけど、それで安心したわけではない。
文句言うやつがおったら、張り倒したったらええねん。
本気で思っている。
文句をいうのなら、使わなければいいだけだ。
そういう「めんどくさいやつ」は、もう相手にしなくてもいい。無視して全然かまわない。
そう思えるのは「無料」だからです。
ぼくは一銭もトクをしていない、むしろ赤字である。
純粋善意の無料サービスには、金剛不動の気合がある。
お金をもらっていたから、弱みがあった。
だからややこしいクレームにも対応しなくちゃいけないことがあった。
相手だって損をしたくないから、いろいろと文句をいう。
「タダ働き」が、こんなにも楽しいものだは思いませんでした。
お金をもらうのももちろんうれしいけど、「ありがとう」の一言は、これに勝るとも劣らない。
ありがとうと言われたら「無料でも、だれにも文句を言わせないものにしていこう」と思える。
その努力は、ぼくの財産になる。
お金ではない、無形の財産になる。
「お金をとらないだなんて、甘すぎるんじゃないの」
そういう人もいた。
でもぼくは、断固としていえる。
「甘いのは、おまえだ」
みんなが困っているときに小銭を稼ぐようなことをして、その小銭のために奴隷のようになって、文句をいわれて、世界を恨みながら生きていって、ほんとうにしあわせか。
なんのために働くか、それはしあわせになるためではないのか。
無償の愛をばらまいて、ありがとうをたくさんもらって、「この世界にはエエやつが多い」ということを確信しながら生きていくほうが、断然しあわせであります。
そして死ぬときも、ゆっくり死ねるではないか。
やりたいことを全部達成しても、人間は死ぬときには必ず後悔するそうです。
でも生きている間に「ありがとう」をたくさんもらっておけば、すくなくとも「おれはだれかを喜ばせたことがある」という事実とともに、死んでいける。
愛には愛が、かえってくる。
50年生きてきて、はじめて「具体的に」教えてもらったかもしれません。