禅は他力本願?

200日連続で坐禅を続けていた時期があって、いまでもヒマがあればよく坐禅をしています。

我ながらよく続くなあと思うけどべつに頑張っているわけではなくて、映画だの本だのテレビだのネットだのゲームだのスポーツだのそういったいわゆる「エンタメ」でヒマつぶしすることにはもう飽きちゃって、坐禅のほうが気持ちがいいからという理由だけです。

 

「性に合っている」というのはあると思います。

禅って全然宗教くさいところがなくて、オカルトっぽいことも全然言わないです。

死んだらどうなるとか、霊がどうとか、気がどうとか、そういうオカルト系のヘンなことは一切言わなくて、そんなもんどっちゃでもええやないか、ほっとけや、っていう姿勢です。

んなどーでもえーことグジグジいっとらんと、さっさと座らんかい!

そういうのがサッパリしてて好き。

 

ということを言うと、「禅は自力本願だから」という答えがよく返ってくる。

でも、どうなのかなあ。

ぼくのようなフニャチンやろうが禅についてどうのこうのいう資格はまったくないのだけれども、禅って自力本願でもないような気がするのです。

むしろ他力本願なのではないか、とさえ思えてしまうことがある。

正確にいうと、坐禅をずっと続けていけば「他力の存在」を感じざるを得なくなっていくと、ぼくは感じるのでした。

 

坐禅中は、とにかく姿勢を正してきっぱり目を覚ました状態で、呼吸に集中せよという。

呼吸法に集中するのではなくて、じぶんがいましている呼吸を外側から眺める・観察するという意味での集中。

するとですね、当然なのに驚異的な事実に気が付かざるをえない。

 

「呼吸は自動である」

 

呼吸だけじゃなくて、心臓の鼓動もそう。

なんにも考えなくても、なんにも意図しなくても、かってに呼吸している。

かってに心臓が、うごいてる。

 

呼吸も鼓動も、まさに「生きている」ということの基本要件です。

呼吸と鼓動が止まれば、その人は死んだと、お医者さんも認定します。

と、いうことはですね・・・

 

ぼくは、かってに生きている。

 

ってことに、気がついてしまうのでした。

心臓を動かそうと思って動かしているわけではなく、息をしようと思って息をしているわけでもない。

ぼくは、生きようとおもって生きているわけではない。

ということに、気が付かざるを得ないではありませんか。

 

「ぼくは、ぼくの意思によって生きているんだ」

なんてことを、以前は考えていたものでした。

生きようとしているから、ぼくは生きているんだ、みたいな。

うそつけ!

ぼくが何を考え、何をどう思おうが、ぼくはかってに生きているのでした。

ぼくの生命に、ぼくの意思は、じつは介在していなかった。

すべてはオートマチックであった。

呼吸と拍動という生命の基本要件からして、オートマチックだった。

 

考えてみれば、ぼくはこの世にぼくの意思で生まれてきたわけではない。

すなわちぼくはぼくの「いのち」について、たまにいろいろ考えることはあるけれども、結果的にはなんら影響はしていないということがいえる。

かつてはパニック障害だったからいつ死ぬかいつ死ぬかと怯えながら生きていたけど、ぼくの恐怖とはほとんど無関係に、心臓はうごきつづけ、呼吸しつづけていた。

むしろ四の五の考えることによって、心臓も呼吸もリズムを乱しがちだった。

なんにもしなければ、ぼくは「すんなり生きていた」。

 

これをして「他力」といわず、いったい何が他力なのだろうか、と思った。

何を思おうが、思うまいが、ぼくは生きている。

オートマチックに、生きている。

いま、まさにこの瞬間、圧倒的な他力によって、ぼくは生かされているではないか。

 

そこで突然、思った。

「ぜーんぶ、おまかせしまーす」

 

もう、いいぜ。

ぼくみたいな中途半端なものが、ああしよう、こうしようだなんて思うのは、まるでばかじゃないか!

50年間一回も間違わずに「生きる」ということを続けてこられたのは、ぼくのおかげというわけじゃなかった。

いや、まあ、仕事をしないとお金がもらえなくて、お金がなければごはんが食べられなくて、それで餓死するというストーリーは、ないこともない。

勉強しないといい大学に行けなくて、いい会社に入れないから、そうなるとお金がもらえなくて、それで餓死するというストーリーも、ないこともない。

ほかにもいろいろ、ストーリーはあるといえば、ある。

だけどよく考えてみろ、そういう屁理屈がぼくの「いのち」に、ほんとうにガッツリと関係してるか?

してねえわ。

すくなくとも、ぼくが思っているほど深い関係はなかった。

ぼくがちゃんとしてようが、してまいが、ぼくはかってに生きている。

ぼくの意思とは、関係なく、ぼくは死ぬまで、オートマチックに生き続ける。

。。。

それが何なのかはわからないけど、「なにか」によって、生かされている。

っていうことはもう、まごうことのない「事実」だったのでした。

考え方とか哲学とかじゃなくて、「事実」だった。

 

こうなってしまうと根本的に思想が変わってしまうじゃありませんか。

いままで王族のような顔をしていた「ぼくの意図と努力」というものが、

大政奉還で平民になっちゃった。

「ぼく自身の力で生きていく」

つまり「自力」がもう、半透明になっていってしまうんですよね。

 

でもって、そのほうが毎日が楽ちんだった。

だってもう、よけいな努力はしなくて良いのですもの。

よけいな努力をしなければ疲れないから、やさしくしていられるし、思いやりもふえる。

ぼくのいのちも人生も、べつにぼくが決めるとか、そういうわけでもなかった。

はじまりにも、おわりにも、そこにぼくはいないのだもの。

だったらばもう「おまかせ」しておけばいいんじゃないかな。

わるいことはせず、できるだけにこにこして、困ってるひとの「おてつだい」をしておけば、もうそれでいい。

がんばらなくても、それでいい。

名前は知らないけれども、その「なにか」にまかせておけば、それでいい。

 

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