ボク以外でパニック障害の知り合いが3人います。
間接的な知り合いを含めたら4人。
うち二人は会社の経営者で、ひとりはおかま。
間接的な知り合いは、ヤクザです。
性格的に共通していることはなんだろうと考えてみるんだけど、じつはあんまりない。
強いて言えば「根がまじめ」ということだけれども、そんなもん、どこにでもいます。
というかむしろ、彼らはそれほどまじめというわけでもないです。ふつうだ。
感受性が高い?
んー、まあ、それもそうかもしれないけど、これも「徹底的に」というわけでもない。
HSPという極度に感受性が高いひとがいるそうなんだけど、そういうのとは全然ちがう。
繊細?
まあ、そういうところもあるかな。
でもこれだって、だいたいの人がそう。
繊細な部分があるのはなにもパニック障害のひとに限った話ではないと思う。
性格がくらい?
これはむしろ逆かな。明るいひとばっかりだ。
べつに無理して明るくしているっていう感じではなくて、「ほんとうはアホみたいなネアカなんだけれども、それを常識に照らし合わせて押し殺している」ぐらいな感じさえある。
常識的?
うん、これはあてはまるかも。
みんな「常識」がすごくありますね。よく人に気をつかうし、とにかく「まとも」ですね。
反応が、ちゃんとしている。へんなことはしない。
もしかすると、ここに何かあるのかもしれない。
パニック障害などと無縁の人っていうのは、よく観察してみると「クレイジー」な人が多いのですよね。
皮肉なもので精神を狂わせてしまった人のほうが根がまともで、狂わないひとのほうがけっこう狂っているということがよくある。
パニック障害は性格が原因だ、という説があります。
でも長年やってきて、またそういう人と長らく接してきて思うのは、性格はほとんど関係ないかも知れないということです。
似たような性格のひとでも、そういった病気に無縁のひとは多い。
少なくとも、性格が第一の原因ではさそうです。
それよりも、ふと気がついたのです。
パニック障害持ちである自分自身や知人友人、はたまた芸能人の方などとなんとなく共通するところがあるような気がする。
それはもしかすると「癒やし系」ということなのではないか。
なんというか、癒やし系なのですよね。みんな。
それは見た目がやさしいとか言葉遣いがいいとかそういった条件的なことではなく、全体の雰囲気のようなもの。
芸能人でパニック障害になった人というのも、ほとんどがそんな感じがするんです。
鋼鉄のようなガチーンとした感じではなく、どちらかというと透明でゆるふわな雰囲気がある。
だから真面目だといっても、「鉄の女」「鉄の男」というような感じはしない。
しっかりしているんだけれども、どこか微妙に「抜けた」感じもすこしある。
もし何か相談をしたら、かなり真剣に話を聞いてくれそうな感じがある。
すくなくとも、じゃかあっしゃあそんなもん自分で考えれやハッタオスぞ、とか、見た目だけウンウンいって「ぺたり目」で聞き流すとか、見当違いの独自理論を押し付けるとか、そういうのはなさそう。
ぼくの知り合いの人たちも、みんなそんな感じです。
「いい人」というカテゴライズだけではどうも括りきれないものを、ずっと感じていたんだけれど、そう、これは「癒やし系」ということなのかもしれないなあ、と。
自分自身のことはよくわからないのですが、まあけっこうそういうところあるかもな、と思ったりもするんですけどね。
でも客観的な「事実」に、けっこう驚愕しました。
こないだiPhoneの「そっくりさん」という、自分に似ている有名人をAIが探してくれるアプリで遊んでみたら、なんと99%で「松本人志」でした。
娘にそれを言ったら「知ってた」と言われました。
えっ。うそおん。
とくに目つきが似ているらしい。
96%で「武井壮」、89%で「香川照之」でした。
つまりは「コワモテ系」だったんですって。
やだあ!
そういえば、ぼくは昔から異様にホモの人にモテるのだけれども、じつは「ガチムチ系」だったのでしょうか。
やだあ!
好きな映画は「グランド・ブダペスト・ホテル」「アメリ」で、ヨガとアロマが好き。
山登りも好きだけど、美術館めぐりとかも大好きで、かわいいカフェとかも好き。
散歩中にはひとの家のイヌに手を降ってみたりするような、どっちかっていうとアタマのわるそうなOLみたいな嗜好性があったりもするんですけど、でも見た目はヤクザ映画の幹部みたいないかつい風貌だったそうです。
やだあ!
そうだったの?
……やだあ!
も、イヌに手ふるのとか、やめよう。
気持ち悪いもんね。
キモーチャーリーもんね。
あとアロマとかヨガとかも、あまりひとには言わないようにしよう。
キモーチャーリーもんね。
なのになぜかよく道を聞かれるんですよね。知らんひとに。
老若男女とわず、老人から子どもまで、なぜか来やがる。
正直にいうと、あまり来てほしくないのに。
外国人がいたら百発百中でぼくのところにきます。
おかしいだろうが。
松本人志とか香川照之みたいな「ギロ目」で睨みつけているのに、なんで寄ってくるんだ。
だからそういうことなのかな、と思ったのです。
見た目とかじゃなくて、なんか「出ている」んじゃないか。
聞けば、知り合いもぼくのことを「癒やし系である」というのです。
そういえばみんな何かイヤなことがあったら電話してきやがるんですよね。
べつになにもアドバイスなんかしないのに。
自分では気がついていないけど、どこかで異常に「気を使っている」のかもしれませんねえ。
なんかこう、うまいこと回るようにというか、円満になるように、ずっといっしょうけんめい考えているのかもしれない。
そういうのが、雰囲気として出てしまうのだろうか。
もしそうなら「スイッチが切れてない」んじゃないのかな、と思ったのです。
とくに過敏なわけでも、繊細なわけでも感受性が高いわけでもなくてただ「気を使っている」。
なにかに。
それが全体の雰囲気を醸造しているのではないか。
だからときに、異常に疲れることがあるのではないか。
坐禅をするようになって妙にラクになってきたのは、そういうことなのかもなあ。
坐禅ってつまりは「スイッチ・オフ」なんですよね。
1日1回、こころの電源を落とす。
以前はこれをまったくしていなかったから、こころがオーバーヒートしていたんだろうか。
じぶんでは気がついていないところで、なにかを、どうこうしようとしているのかも。
「敏感」「繊細」なだけでは、ないと思うんですよね。
敏感であることが原因なんじゃなくて、その敏感な神経で受けとめた情報を「処理」するところで疲れていると思うのです。
そりゃあ神経を薬で麻痺させたら、いったんは落ち着きますわね。
でもそれはなんか、本質的じゃないような気がする。
問題は「処理」のほうだと思うから。
処理しなくてもいいようなことを、処理しようとしているんじゃないのか?
うすうす、そんな感じはしています。
処理を、やめてみる。
強制的にブレーカーが落ちる前に自分でこころのスイッチ・オフをする習慣をつけていこうと思います。
百歩譲って癒やし系なのはいいとして、それで疲れていたのでは、ちょっと段取りが悪すぎます。
だれかを癒やす者には、人並み外れたバイタリティーが必要だ。
バイタリティーのない者、気の弱い者、やさしい者は、けっして人を癒やしてはならない。
ともだおれになる。
「癒やす」とは、ひとにエネルギーを分け与えることだからである。