故スティーブ・ジョブズ氏が残した名言に、
Stay hungry, stay foolish.
というのがあります。
なんとなーくネットで検索してみたら、ビックリしました。
とてもビックリした、と言っても過言ではありません。
検索上位に出てくるほとんどのサイトで、「この言葉には真意がある」と言っているんですよね。
「Stay hungry, stay foolish.」をそのまま日本語に訳すと、「常に飢えていろ、常にバカでいろ。」ということになります。
これをして、ほとんどのサイトは「それはジョブズの本意ではない」「真意は別にある」と言っているのですね。
なかには、1980年代のヒッピー文化を知らねばならない、とか言っているサイトもあります。
結果多くのサイトでは、以下のように「意訳」をしています。
現状に満足せず常に向上心を持ち、常識にとらわれず革新的であれ
?
え、なんでそうなるん?
foolishという言葉から、どうして「常識にとらわれず革新的云々」っていう意味が出てくるんだろう。
バカは、バカでいいんじゃないの。
いや、ぼくもほんとうの意味なんてわからないよ。
でも、これを意訳した人じたいが、「常識にとらわない革新的な人材が先進的な人材だ」っていう「常識」にとらわれているように見えてしまう。
あるいは「愚かなことより賢いほうがいいに決まってる」っていう「常識」にとらわれている気がする。
単純に愚かなこととか、単純に腹ペコなことを、受け入れられないんじゃないのか。
そんなにめんどくさく考えなくても、そのままでいいような気がするんだけどなあ。
hungryは、飢ていろ、でいいと思う。
foolishは、愚かであれ、バカであれ、でいいと思う。
ヒッピー文化をどうこういうまえに、「禅」のほうも見たほうがいいんじゃないの?
ジョブズ氏は、けっこう本気で禅をしていた人だったそうですからね。
禅では、「愚」ということを大事にします。
「大愚」と言ったりもする。
おろかであることは、とでも大切である、としているんですよね。
ジョブズ氏はたぶん、べつにそんな、常識ガー革新ガー、イノベーションガー、みたいな、気色の悪い、人のフンドシで相撲を取るコンサルタントみたいなこと考えてなかったと思うんだよなあ。
だって彼の人生を見てみたら、ほんとに申し訳ないけど、バカまるだしですよね。
自分でつくった会社を乗っ取られてやんの。
ビックリするぐらいの大失敗もやらかしてます。
すげー嫌われ者だったし。
会社を作った動機だって「おれが欲しいと思うものを作って売れば、一石二鳥じゃん」みたいなことだったそうですしね。
彼の人生の後半に出てきたiPhone以降の「結果」だけをみて、彼を有能なビジネスマンのように定義してその観点で意訳するのは、ちょっと違う気がする。
ぼくは直感で思うんだけど、ジョブズ氏って、ほんとに「すごいバカ」だったんじゃないかな、と思うんですよね。
いいふうに、とか、わるいふうに、とかじゃなくて。
また禅では、腹いっぱい食うことは、基本禁じられてます。
粗食で、いつもおなかがすいていることを推奨しています。
腹ペコじゃないと、悟れないとも言われてるんですよね。
すくなくとも、好きなもんを腹いっぱい食うってことだけは、ぜったい許されてないと思う。
だからこれもそのまま「ずっと腹ペコであれ」でいいんじゃないの?
彼の生き様って、マジで禅の高僧みたいなところがあるんですよね。
偏屈で、頑固で、でもあっけらかんとしていて、強くて、カラっとしていて、動じない。
頑固なくせに、なぜかものすごく柔軟性もある。
そして、とにかく考え方も、行動も、ダイナミックだ。
やさしさは……あるのかないのか、よくわかんない。
クールすぎて、よくわかんないんだよなあ。
でも冷たいんじゃなくて、熱いんだ。情熱を感じる。
悪人ではないことは確かだけど、もし悪人になったら天下の大悪党になりそうな感じ。
なんか、もう「人間」という領域を、すこし飛び出している感じがあるんですよね。
そんなのだから、そもそもの解釈の段階から、「常識外の解釈」をしないといけないんじゃないの。
「この宇宙に凹みをつくる」とか言ってたひとだぞ?
ビジネスとか、経営とか、そんな狭っ苦しい範疇で彼の言ったことを説明するのは、高確率で「へんな方向」に行くような気がする。
亡くなってから10年も経ってないのに、もう解釈が分散しはじめてるんだよな。
だから、マジで思うんですよ。
仏典とかも、全部そうなんじゃないの。
こんなに印刷とか記録とか情報伝達とかがかなり高度に発達してる現代でさえ、たった10年前の偉人のことばさえ、正確には意味がわかんなくなったり、諸説が乱立してる。
2000年も3000年も前の、お釈迦さんの真意なんて、どうなるんだよ。
どうせみんな、狭っ苦しい当時の世界観のなかで解釈してきたんだろ?
お釈迦さまの言ったことを読んでるんじゃなくて、お釈迦さんの話を聞いて、それを解釈したひとの話を読んでる。
そんなの、ほんとに読む意味あんのかなあ。