そらをみあげて

意識の帰属先を、宇宙へ。

………なんていうことを書くと、一気に「ヤバい」感じがしますなあ。

なんかこのう、あやしげなスピ系に陥没してしまった現実逃避のような。

しかし、ひろいココロを持ちたければ、それもいいのかもしれませんね。

ココロが狭いのは、意識の帰属先が狭いからにほかならないです。

 

どうすれば、意識の帰属先を宇宙にできるだろうか。

「帰属意識」というのは、どうやって芽生えるのだろうか。

 

たとえば会社への就職決定の通知がきたときには、まだ会社に対して帰属意識はありません。

入社式を経て、研修を受け、配属先で挨拶をし、歓迎会を経て、仕事を任され、毎日会社へ通ううちに、だんだんと帰属意識が芽生えてくるものです。

だから「儀式」と「継続」「ひととの出会い」によって帰属意識が芽生える……となりそうですが……実際には、そうではないですね。

それだけでは、帰属意識は芽生えないです。

それらももちろん大事なファクターではあるけれど、いちばんのポイントは「役割を与えられた」ということではないでしょうか。

その組織において、独自の役割と責任を与えられている。

このことが、帰属意識の中核であるような気がします。

 

さて、そういえばぼくは人生で4回、「わたしは宇宙に属している」と感じたことがあります。

それはネパールに行ったときと、島根県の山奥に行ったときと、ハワイに行ったときと、神戸の大震災を経験したときです。

これらの共通点は、

満天の星空を見た

ということです。

 

ネパールはしょっちゅう停電をする国で、ぼくが旅行に行ったときも、1日おきに街じゅうが停電していました。

たまたま夜中にホテルの屋上にいたときに街全体が停電し、その瞬間、突如「ものすごい」星空が顕現しました。

写真でしか見たことがないような、紫がかったまっくろの天空に、ばらまいたダイヤモンド屑のような無数の星星が明滅していました。

たぶん、新月の日だったのだと思います。

絶句しました。

そしてなぜだか、泣いてしまいました。

このような星空は、日本では見ることはできなかったです。

ハワイでは、ダイヤモンドヘッドに行って地面の上に寝転ぶと、そこにもすさまじい星空がありました。

 

しかし、日本にも同じような星空はちゃんとありました。

島根県にクルマで行ったとき、夜遅くに迷って山奥に入り込んでしまったのでした。

道もわるいし、朝がきて明るくなるまで寝て待とうと思い、ヘッドライトを落として車中で横になった瞬間に、びっくりするような星空がフロントガラスごしに見えました。

ぼくは驚いて思わずクルマから飛び降り、しばらくずっと星空を見上げていました。

日本でも、街のデンキがないところでは、すさまじい星空が見られるのでした。

 

震災のときも、そうです。

神戸は夜景がきれいな街として有名ですが、夜景がきれいだということは、星空はきたないのです。

街のひかりに、星のひかりがかき消されてしまうから。

しかし大震災でしばらく停電の日々がつづいたある日、冬の空にはネパールにもハワイにも負けないほどの、強力な星空が、神戸の空には出現したのでした。

 

満天の星空は、この地球上の、どこにでもあるのです。

まちのひかりにかき消されて、見えないだけ。

 

「どぎついほどの星空」を見上げていると、りくつなんかふっとんで、「ぼくは宇宙に属している」という感覚が、ダイレクトに沸き起こるものなのですよね。

会社とか、仕事とか、経済とか、恋愛とか、将来とか、そんなものはもう、どうだっていい。

そのようなことがらは、夢のようなものだ。

夢のような、現実の星空をみあげていると、ふだんの現実のほうが、夢のように見えてくるのでした。

 

組織への帰属意識は「役割」によるれども、宇宙への帰属意識は、ただ「接点」によるのものかもしれないです。

星空という、いちばん宇宙を感じやすいところに、いるということ、それを見るということ。

 

人工の世界に閉じこもり、そこで役割を与えられてしまったものだから、人工の世界に帰属してしまうのかもしれないですね。

しかしそれは、なにもわるいことではありません。

人の世で、人としての役割を懸命こなすということも、人の世が宇宙に属しているかぎり、決してまちがったことではないです。

宇宙はすべてを包含していますから、そのどこに帰属しようが、宇宙に属していることにはちがいがありません。

むしろ人の世を放棄して、宇宙だけに帰属しようと考えることのほうが、宇宙からはとても遠いのかもしれないですね。

それは帰属先を変えたのでもなく、宇宙に帰属したのでもなく、人の世から目をそむけてエゴに埋没しただけにすぎませんから。

 

ただ、たまには思い出すことも必要なんだと思います。

街や家や組織という人工の世界だけが「この世」ではないのですものね。

そうした狭い世界を「わたしの居場所だ」と勘違いすることから、ストレスは発酵していくのかもしれないです。

家や会社や国や仕事も確かに宇宙の一部ですけど、その外側には、比べ物にならないほどの巨大な存在があって、じつはそちらこそが「本陣」だった。

 

そのことを思い出すために、人はたまに、自然を恋しがるのかもしれませんね。

人の世につかれたら、たまには「おうち」に帰ってみる。

でもその「おうち」は、ほんとうは、いつでも、どこでも、いまいるこの場所の真上に、ずっと前からあるのですけれどね。

ピンとこないから、満天の星空を見て、やっと思い出すのだと思います。

 

まちや家が明るくなったおかげで、そらは暗くなってしまって、とおいところに行ってしまいました。

多すぎる人工の光のせいで、ぼくたちは宇宙から隔離されてしまったのです。

 

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