このお盆は読書かな。
やっぱりパソコンやスマホ、タブレットやKindleよりも、紙の本のほうが神経が落ち着きますね。
今後は、読書は紙の本でいこうと思います。
きのうは「はじめての鈴木大拙」を読みました。
たしかに、名前はよく知ってたけど、鈴木大拙さんの本というのは一回も読んだことないです。
まさに「はじめての」なので、ちょうどよかった。
鈴木大拙さんは禅僧なんだろうと勝手に思っていたのですが、お坊さんというよりは仏教学者さんなんだそうです。
アメリカなど海外に禅の思想を広めた功労者だとか。
かのスティーブ・ジョブズ氏も禅をやっていて、鈴木俊隆禅師の「禅マインド ビギナーズ・マインド」という本にたいへん影響を受けたそうです。
鈴木大拙氏と鈴木俊隆禅師は名字が一緒でも血縁的には関係ないようですが、同時代にともにアメリカで禅を広めたことで、アメリカでは「ふたりのSUZUKI」と呼ばれていたそうです。
鈴木俊隆禅師は、鈴木大拙氏に敬意を表して自分のことを「小さな鈴木」と言っていたそうです。
海原猛氏は、鈴木大拙氏をして「近代日本最大の仏教学者」と評していたそうです。
そんなにすごい人の語録をあつめたのがこの本なのですが、たいへん読みやすいです。
かなりデザインに凝って作られていて、親しみやすいよう、わかりやすいよう工夫しているのが垣間見えます。
文字も大きく、要点もかかれていて、まさに初心者向け、という感じですね。
善意を感じます。
1ページに1語という感じなので、あっという間に読み終えることができますが、その1ページ1ページにかかれている言葉が、「ぐっとくる」ものばかりでした。
これを読んでいると、禅に対する先入観が消えていく感じがします。
なるほど禅というのは「全肯定」の側面もあるのだなあ、そして「矛盾をゆるす」ということも、とてもだいじにしているのだなあ。
とても柔軟で、生命力にあふれている考え方だなと感じました。
この本のなかで、じつはいちばん「はっ」としたのは、鈴木大拙氏の言葉そのものではなく、そこで紹介されていた松尾芭蕉の句でした。
やがて死ぬ 景色は見えず 蝉の声
この句は一般的には「この世の無常さ」を示していると考えられています。
また自分の命の儚さを知らず、それに備えることもなくぎゃあぎゃあ騒ぎ立てることの愚鈍さを戒めている、という解釈もあります。
学校ではそのように教えられますし、ぼくもそう思っていました。
でも鈴木大拙氏は、この句をこう解釈するのです。
蝉というものは、ジュージューと何も惜しまず、あとに残さない。
力を半分出すなんてことはない。小さな蝉の全部がジューになって出るですな。
蝉はやがて死ぬのだが、今日死のうが明日死のうが、そういうことに蝉は頓着しない。
持っておる全部を吐き出して、ジューとやるところに、いわれぬ妙がある。
それを芭蕉が見たに相違ないのです。
つまり芭蕉の句を、
今をせいいっぱい生きよ、すべてを出し切れ
と解釈した、ということです。
変な話、鈴木大拙氏の語録を読んでぼくは「俳句って面白いな」と思ってしまった。
まったく同じ句なのに、真逆に近いような解釈が成立可能なのですね。
伝統的な解釈では、セミを愚者の隠喩としています。
しかし鈴木大拙氏の解釈では、セミの生き方を肯定し、そこから学ぼうとさえしているのです。
つまり「読むひとの心情」によって、答えは大幅に変わってくる。
じつはこれはすべてのことに共通で、対象の事実よりもその「解釈」こそに意味がある。
失敗したことで「わたしはダメ人間だ」と捉えるか、「失敗のおかげで学ぶことができた」「べつの道を模索する機会を得た」と捉えるかは、本人の解釈次第です。
芭蕉の句の伝統的解釈では、その解釈をしたひとに「陰鬱なる気」が充満していたのかもしれません。
セミは無常や諦念、事実を知ることなく、ぎゃぎゃあ騒ぎ立てるだけの無能である。
この解釈をした人は、人や社会のことがキライだったんじゃないかなあ。
この解釈はセミをバカにしているし、これを教訓と捉えることにも、すこしうがった視点も感じます。
考えてみれば、ただ
「やがて死ぬ 景色は見えず 蝉の声」
というたった17音に過ぎない言葉で表現された情景描写をして、そこまで薄暗く解釈する必要はないともいえます。
そう解釈した、ということは、その解釈者はそういう人だった、ということなのかもしれません。
個人的には、鈴木大拙氏の解釈のほうが大好きです。
「やがて死ぬ 景色は見えず 蝉の声」
やがて死ぬからこそ、先のことや正解など心配せずに「いま」を精一杯生きろ。
じぶんが、じぶんとしてできることをいま、迷わずにやれ。
そのほうが、人生たのしいに決まってる。
この世はクソだ、ぜんぶ無意味なんだと思いながら、あるいはそれを知って生きていって、人生なにがオモロいねん。
なにをしに生まれてきたんじゃ。
どうせ無に帰するのなら、有である「今」を徹底的に謳歌するのが、男らしい生き方だと思います。
それに、セミは、りっぱです。
何年間も土にもぐって生きてきて、やっと出てきたと思たら、1週間かそこいらで死んでしまう。
でもセミは、そんなことに文句は一切いいません。
無常だとか、意味がないとか、神様はひどいとか、そんなしょうもないことは言わない。
ただ大声で「おれはいま、ここにいるよー!!」と、せいいっぱい叫んでる。
じぶんにできることを、せいいっぱい、やっている。
そしてだまって、文句もわず、悔いもせずに死んでいく。
うつくしいじゃないか。カッコイイじゃないか。
それを「バカの象徴」と捉える伝統的な解釈者のほうが、ずっとずっとバカだと思う。
いきものはみんな、いっしょうけんめい、いまを生きてる。
ぐずぐずいうのは、人間だけです。
いまをちゃんと生きてないから、先のことでぐずぐず言うんでしょうね。