のびやかなこころ・のびやかなからだ

ううー、だるう。

も、なんちゅうかそのう、だるう。

 

春なんだなあ。

べつに風邪というわけでもないのに、すげーだるいのであります。

からだが、重い。

で、眠い。

油断すると、ウトウト・・・となってしまう。

 

春になると、ダルくなる。

だれでもそうなんだけど、自律神経の調子がよくない人ほどよけいにその傾向が強いのだそうです。

冬は寒いのでどうしても交感神経のほうが優位になって、神経もからだも萎縮・硬直しがちです。

自律神経失調症のひとは交感神経が興奮していることが多いので、よけいにそうなりがち。

そこで春になって暖かくなってくると、神経がゆるむ。

緊張が強ければ強いほど、ゆるみも激しくなるのだそうです。

このゆるみが、ダルさの原因なんだそうでありますね。

 

自律神経の不調の原因はストレスである、とよくいわれます。

強いストレスを受けると緊張します。

この緊張が自律神経のうち交感神経を興奮させてしまい、そうなると各種筋肉は萎縮していき、姿勢も悪化し、血行がわるくなったり呼吸が浅くなったりして、結果いろんなところに不調が出るようになる。

ということはつまり、大本の原因はたしかにストレスだけれども、直接的な原因は緊張と萎縮ということになります。

 

緊張と萎縮。

わかる。

ぼくはパニック障害から外出恐怖になってしまったんだけれども、これだってようするに「緊張と萎縮」です。

パニック発作の原因もストレスだとお医者さんはいうけれど、はっきり言ってこの発作こそが最大のストレスなんですよね。

パニック発作のストレスに比べれば、人間関係だの仕事だのカネだの惚れた腫れただのなんだの、そんなもんハナクソであります。しょうもない!

パニック発作を何度も何度も繰り返していると、最大級のストレスを何度も繰り返しているのと同じ。

だからどんどん、萎縮・緊張していくんですよね。

するとそのうち、外出すらままならなくなってしまうこともある。

 

発作についてお医者さんは「気にするな」とか「必ず収まるから安心しなさい」という。

お医者さんってきっと頭はいいはずなんだけど、ことこの件に限っては「アホ」みたいになってしまうんですかね。

それができたら、もう発作じゃないんです。病気じゃありません。

なのにアホみたいな顔して「あまり気にしないほうがいいですよ」とか、どうしちゃったの。

やっぱりパニック発作っていうのは「やったひとしかわからない」のかもしれませんね。

勉強しても、頭が良くても、意味ねえな。

 

萎縮と緊張を、取り除いていかないといけないんですよね。

じゃあ、どうすればいいのか。

クスリで麻痺させてしまうっていう方法もあるけど、別の道もあると思う。

なぜ萎縮・緊張するのか、っていうことを考えてみる。

 

ぼくは個人的に、気がついたことがあります。

神経や肉体の萎縮と緊張は、こころが生み出している、ということです。

つまり何らかの「こだわり」があると、神経もからだも「こだわる」のでありますね。

からだの緊張を解けばこころもゆるむ、と主張するのが近代ヨガや整体なんだけれども、経験上これはあんまり信じすぎないほうが良いと思います。

その方向性は、多少効果があるけれど、あまり効率的ではないのです。

こころの中核にあるこだわりは、いくらからだを変化させても変わらないのであります。

メイン回線はきっと「こころ → からだ」というベクトルなのだと思います。

こころを、のびやかに。

まずはこっちのほうに手数をかけるべきなのだろうと思います。

 

こころが、のびやかでないのは、なんらかの「念」に憑依されていることが多いのですよね。

善悪観念とか、倫理感とか、価値観とか、常識、イデオロギーなど。

たとえば「テレビ日本昔ばなし」のような自己犠牲型人生を称揚する偏った妄想的イデオロギーなどが影響していることもあります。

「利他」ということと「自己犠牲」ということを混同したり、「無欲」ということと「欲の否定」ということを混同してしまったりして、自分自身の感情や行動の発露を閉塞していく人もいる。

単純に幼少時の強い恐怖が影響していることもある。

 

いずれにせよこの「念」を放棄するしか、道はないのだと思います。

つよい念はいずれ執念となって、ひとを狂気へ導く。

一種の悪魔なのであります。

この「念」という悪魔を、心の中から追い出していく必要がある。

 

どうすればいいのか。

まずはその「念」がいったい何なのか、ということを発見しなければなりません。

じぶんがこだわっているのは、何なのか。

まず対象を見つけなければ、捨てようにも捨てられません。

これを発見させてくれるのが、座禅や掃除なのだろうと思います。

注意深く、自分自身の心の動きを観察する。

そうすると、「ああ、おれの【拘】は、結局はこれなのか」ということが見えてくることがある。

座禅や掃除で効果が得られるひともいて、それはぼくです。

たぶん「性にあっていた」のだと思います。

ぼくのばあいは、「正義感」がそのうちのひとつでした。

 

しかし、座禅や掃除で効果の得られないひともいます。

そもそもそういうことをしようとは思えないし、やっても続かない、という人もいる。

そういう人が無理にやっても、ぎゃくにストレスが増えてこころを圧縮するだけで、かえって逆効果になるかもしれません。

だから、こころを開放する方法は結局自分自身で見つけなければならない、ということなのだろうと思います。

 

しかし最近思うのは、「観念の中和」ということも可能なのではないか、ということです。

邪魔をしているのが「念」なのであれば、「念」によってこれを破壊あるいは中和することも可能なのではないか。

毒には毒を。

 

「のびやかなこころ」

という「ことば」を念じる、というのもアリかな、と思うのです。

のびやかである。

わたしのからだも、こころも、のびやかである。

言い聞かせる。

 

のびやかでない人、というのを想像してみる。

・怒りっぽい

・いらいらしている

・細かいことにこだわる

・こころのガードがかたい

・失敗をおそれる

・小心者、臆病者

・こだわりが強い

・排他的

・独善的

などなど。

それと逆の人物像が、「のびやかなひと」ということになる。

 

たとえばストレッチやヨガをしているとき、

「ようっし! 伸ばすぞ! やるぞ!」

とか言いながらやると、全然からだは柔くなりません。

そこで、

「のびやか〜〜」

と言いながらやると、若干柔らかくなります。

意識の持ち方どころか、言葉の使い方だけでも、筋肉の柔軟性は変わるのです。

 

こころの【拘】に対しても、同じようなことが可能なのではと思ったのです。

たとえば密教では「三密」という基本概念があって、

・念

・ことば

・行動

を一致させることで心の状態が一気に変容すると説くそうです。

「わたしは、のびやかである」

そう思い、ことばにして、動けば、こころは少しでも伸びやかになるのではないか。

っていう。

 

のびやかなこころ。

のびやかなからだ。

これらが欠如したとき、心身は悲鳴を上げるのだと思います。

のびやかさを失わせたのは、直接的には結局、じぶん自身のこころ(念)なんですよね。

だったらば、変えられる可能性は高いのではないかと思うのです。

萎縮した念を生み出したのは自分自身なのだから、ちがう念を生み出すこともまた、可能なはずである。

 

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